菌糸教トラクト

 フクタは先生に次を読むように言われると、ズズーーと椅子を後に引きずりながら席を立ち、小さな声でボソボソと教科書を読み始めた。
「もう少し大きな声で読んで下さい」
先生に注意されたが、フクタの声の大きさは変わらない。後の席の子供が、消しゴムのカスをフクタの背中に投げている。消しゴムのカスを投げた子供の隣の子がクスクスと笑いながら、小声で、
「ダメよカスは可哀想よ。アタシはねぇ……」と言いながら自分の消しゴムをちぎってフクタに投げた。
今度は消しゴムのカスを投げた子供がクックックと笑いながら、小声で
「どう違うんだよー」
「わかんないの? アタシはまだ使ってない所を投げてるんだから、汚くないでしょ?」
先生が気づき、
「はい! 後の二人、ヒソヒソ話しないで、ちゃんと聞いていなさい」
「はーい」二人はとりあえず、どちらが酷いかの口論をやめて聞く振りをした。
休み時間になると、クラスの中の子供たちは一斉に外に出るものがいたり、教室の中で友人の席の周りに集まり、談笑したりしていたが、フクタはいつもどおり自分の席に座ったまま、静かに前の席の机をじっと見ている。
「おい、知ってるか? フクタが座っている椅子ってさぁ、菌が生えてるんだぜぇ?」
「なんだよ菌って?」
「お前、そんな事も知らねーのかよ! バイキンだよ!」
「ば、バイキン! ? きたねー、ハヒフヘホー」
フクタは聞こえているのかいないのか、わからないが、ボソッと何かを呟いた。普段、何を言っても反応しないフクタが何かを呟いた事で、バイキンの話をしていた子供たちが興味を示し、
「おい! フクタ! 今、何て言ったんだよ!」
「おい! フクタ!」
しかし、それ以降、フクタはまた黙り込んで、何事もなかったように自分の前の席の机をじっと見ている。
「……んだよ……」
バイキンの話をしていた子供たちは、だんだん空耳だったのかと思い始め、話題が変わった。
ホームルームが終わり、放課後になり、みんな友人と連れだって帰る子供、まだ教室に残って話をしている子供、校庭に行って遊ぶ子供、クラブ活動に行く子供がいる中、フクタは学校に来てから初めて机から離れ、鞄を取ると自宅までまっすぐに帰る。
帰り途中、足元を見たまま歩いている。ふと、フクタの足が止まった。じっと下を見たまま止まっている。
フクタの目線の先にはアリが動いていた。数分見ていたが、我に返ったようにまた歩き始めた。暫く歩くと、また立ち止まって、下の方を見ている。歩道の横の草むらの中にカマキリを見つけたのだ。しかし捕まえようとするでもなく、ぼーっと立ったまま見ているだけで、しゃがみ込もうともしなかった。
後から下校途中の同じクラスの子供が近づいて来た。
「おい! おまえ、なに見てるんだ? おい!」
フクタが見ている視線の近くを見ると、
「おっ! 百円めっけ! フクタ、お前、目が良いな! なぁ! 拾わねえのか? なら、俺が拾っちまうぞ。なぁ、えぇい早い者勝ちだもんな。何だよフクタぁ! 文句でもあるのかよー」
何も言わないフクタを見て、「じゃあな!」と言って走り去っていた。
フクタはそれから暫く、なおもカマキリを見ていたが、家に向かって歩き始めた。
kamakiri

ガチャ、フクタは家のドアの鍵を開けて玄関に入ると、
「フクタぁ! ? フクタなのぉ? お帰りなさーい」
フクタは小さな声で「ただいま」と言うと、
「いつも帰って来たら、大きな声でタダイマって言ってって言ってるでしょお? 泥棒かもしれないと思うと、ママ怖いでしょ?」
フクタはボソっと「鍵を開けて入って来てるんだから……」
「なに? なんて言ったの? ハッキリ言わないと聞こえないでしょ!」
フクタは黙って、廊下に鞄を置くと、リビングを通り過ぎて、地下室へ続く扉を開けた。
「フクタ! あんた、まず自分の部屋に鞄を置いて来なさいよ。せっかく自分の部屋があるっていうのに、年がら年中、地下室とか土蔵にばかり篭ってぇ! そのうち体からカビが生えちゃうぞぉーー」
フクタの母親は両手を顔の横に上げて、ワシの手のような形を作った。
フクタはボソっと、「怪獣じゃん……」
「えっ? なに? 何て言ったの? 聞こえないよー」
フクタは、ギシッギシッと地下室の階段を降りて行った。
「危ないから、ちゃんと、電気をつけるのよ!」
階段の上から声が聞こえて来た。
地下室の階段を降りると、その部屋を以外と大きな部屋だった。なんでもお爺さんの代からあったらしい。お爺さんは四年前に亡くなっていたが、とてもフクタを可愛がってくれた人だった。本当にいろいろな事を教えてくれた人だった。
部屋の片隅には大きな棚があった。以前は普段使わない食器などが置かれていた場所だったが、今は所狭しとシャーレが数十個も置かれていた。
フクタは棚に近づくと、少し目が慣れるまでじっとしている。少し目が慣れると、そばに置いている小さなペンライトをシャーレに当て、すぐに消して、ノートに何やら書いている。
フクタはそうやって、夕食までと寝るまでの時間を過ごすのが日課になっていた。

――
gesui

暗闇の中、二人の少年が走っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「フッホ、フッホ、フッホ」
チャチャチャチャチャチャと少し湿った地面を叩く足の音も同時に続く。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「フッホ、フッホ、フッホ」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……おい、タキシぃ! 大丈夫か?」
ウージが息を切らしながら、高い声でツバを飲み込みながら聞く、タキシと呼ばれた大柄な少年は少し低めの声で
「うん、大丈夫、フッホ、フッホ」
タキシはウージよりもだいぶ体が大きく、とても同い年には見えない。
「お前、ホント、体力あるな……はぁ、はぁ、はぁ、ひー苦しーはぁ、はぁ、はぁ、で……も、負っけねーぞー!」
「フッホ、フッホ、ウージ君、無理しないで、休もうよ」
「うるへー、ま、まだ、まだぁ!」
「ウージ君、凄い汗だよ、それに顔も青いよ。ねぇ、もぅ休もうよ」
タキシはポケットからハンカチを出して、ウージの額を拭おうとしたが、
「ば、馬鹿やろー! 余計なことすんなーー」とタキシの手を勢い良く払い除けたため、タキシのハンカチがヒラヒラと後の方に落ちて行った。
ウージはなおも汗びっしょりで走りながら、きまり悪そうに、
「す、すまねぇ……ま、まだ、追手が来てるかもしれないだろ……はぁ、はぁ……」
「そぅかなぁ……さすがに下水道の中まで探さないと思うんだけどなぁ……フッホ、フッホ」
「はぁ、はぁ……甘いぞタキシ! あいつら、見くびると……た、たぶん、捕まったら……こ、殺されるかもな……はぁ、はぁ……」
「フッホ、フッホ、うん……それは言わないでよ。考えないようにしてるんだからさ……あ、足が震えて来たよ」
「わ、わりー……はぁ、はぁ、あともう少しだけ走ろう」
二人は下水道の暗闇の中を走り続ける……

――

「フクタぁー! ご飯出来たわよーー上がって来なさーーい」
フクタはシャーレの様子を一通りノートに書き終わり、暗闇の中で物思いに耽っていた。
フクタは階段をギィギィと登りながら、
「ちょっと調べるか……」
とブツブツ言っている。
食卓に座ると、母が準備を済ませ、座って待っていた。
「今日もパパ遅いってさ! 先に食べちゃおうね」
フクタは小さな声で、「いただきます」と言うと、すぐに食べ始めた。
「頂きます」
母も慌てて食べ始める。
フクタはテレビのニュースを見ながら、無言で食べている。
「どう? 学校は?」
「うん、まぁまぁ」
「そう、ママねぇ、今日、買い物に行ったら、八百屋の奥さんに、奥さんいつも若いわねぇ言われちゃったのよ。どう、フクタぁ、ママ若いかなぁ?」
「うん」
「あら! ホント? フクタもお世辞が上手いわねぇ~」
「うん」
「ちょっとぁ! なにそれ! フクタ、あんたハナシ聞いてないでしょ!」
「うん」
「こら! もう! フクタの大好物のカニクリームコロッケ食べちゃおうっと……っと、と、と……あんた、もう食べちゃってるじゃない。ホント、こういう時は早いわね。あっ、こっちは全然、ハシつけてないじゃない。こらっ! 繊維も食べなきゃダメでしょ!」
フクタは少し食べ残していたが、小さな声で、「ごちそうさま」と言うと、リビングの窓をカラカラっと開けて、サンダルを履き、庭を抜けて、土蔵の中に入って行った。
暫くすると、フクタはわら半紙の束を手にして戻って来て、階段をトントンと登って行った。
「あれっ? 珍しー、今日は穴ぐらに戻らないの?」
「うん、きょうは、ちょっと調べものが……」
「えっ? なに? 何て言ったの? 聞こないよ? 調べ物?」
「聞こえてるじゃん」
「えっ? もぅ……ボソボソって、もぅーホント、カビになっちゃぞ」
クスッ、フクタはツボに入ったのか少し笑ったが、
「あら、くしゃみ? ちゃんと暖かくするのよー」と下から声が聞こえて来た。

――

下水道の暗闇の中、二人の少年は歩いていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「…………」
ピチャ、ピチャという湿った地面を歩く音が続いている。
「はぁ、はぁ、さすがにもう走れねぇな、はぁ、はぁ」
「……そう……だね……」
「あ~ん? タキシぃ! お前はまだ走れるだろ。いいか? 怖かったらな、はぁ、はぁ、さ、先に行っても良いんだからな。はぁ、はぁ」
「やだよぅ……ウージ君、そんな怖い事言わないでよぅ……一人なんてムリだよぉぅ」
「はぁ、はぁ、ま、し、しょうがないな、はぁ、はぁ、じゃあ、俺に付いて来るしかねぇな、はぁ、はぁ」
「うん、頼りにしてるよ、ウージ君!」
「はぁ、はぁ、あぁ、任しとけ、ゲホ、ゲホッ」
ウージは胸をドンと叩いたあと、むせた。
「ウージ君、大丈夫? ねぇ、もう休もうよ。僕、もぅ限界だよ、足が痛いよ」
「はぁ、はぁ、そうか、タキシがもう限界だって言うんじゃ、しゃーねぇな。じゃ、休むとするか。はぁ……」
二人はようやく足を止めた。
「はぁ、はぁ、その窪みの所に座ろう、はぁ……」
二人は、ようやく座って疲れを癒やす事にしたが、座ってから数分すると、
「……ウージ君、な、なんかさ……こうやって、じっと、してるとさ……次から次から、施設であった事が浮かんで来て怖いよ」
「……そうだな……」
ウージも眉間にシワを寄せている。
「あれ、何だったんだろ?」
「そ、そりゃぁ、決まってるだろ。ひ、人だろ……」
「あ~~~ん、言わないでよ、薄々、そうじゃないか? とは思ってたんだけど、見間違いだと思おうとしてたんだよー」
「み、見間違いじゃねーよ。で、でも、だからって、捕まるわけにいかねーじゃねぇかよ」
「僕達も捕まったら、あーなっちゃうってことぉ? ウージ君、怖いよぉう!」
「お、俺だって、あれ、思い出すと怖いよ……でもな……あれを誰かに知らせないと、もっと犠牲になる人が増えるんだぞぉ! よくわからないけど、もぅ何かが既に始まってるんだよ」
「えっ? 逃げるんでしょ? 逃げるんだよねぇ! そうじゃなきゃ、僕、付いて行かないよぉー?」
「あ、当たり前だろ、あんなヤツラと、どう戦えって言うんだよ。そ、それに警察にも手が回っているんだから、助けを求めるにしたって、どこに行けば良いのかわからねぇよ」
ウージはポケットからメリケンサックを取り出して見ながら、フー、と深い溜息をついた。そしてもう一度ポケットに押し込むと、武者震いしながら指をポキッっと鳴らした。
その音が暗闇の地下道に響くと、タキシが、
「ヒーーー!」
と悲鳴をあげて震え上がった。その反応にウージもびっくりしたが、すぐに落ち着いて、
「わ、わりぃ、この音だよ」
と、指を鳴らす仕草をした。
「ま、紛らわしい事しないでよ! もう、これからずっと、指鳴らすの禁止!」
「わーった。わーった。悪かったよ。わかった、わかった、禁止な」
「ヒーーー!」
また、タキシが悲鳴をあげて震え上がった。ウージはやや呆れ気味に、
「なに? 今度は何だよ?」
「き禁止って言葉も、きん、使っちゃ駄目!」
「あぁ~なるほど~うん、わかった。きん……も、き……、あぁ~紛らわしい! 使わない、使わない!」
暫く、二人は何も話す事がなくなり、静かにじっとしていた。
「でも、もう、追って来る気配はないね、良かったね」
「ま、まぁ、明日にはどうなるかわからねぇけどな……」
タキシが大きなあくびをした。
「ウージ君、何だか僕、眠くなって来たみたい」
「ま、まじかよ、こ、こんな時によく眠くなるな……はーうん……」
ウージもつられて大きなあくびをした。
「ハハ……俺も眠くなって来たよ。本当は交代で寝た方が良いんだろうけど……」
いつの間にか二人は眠ってしまった……

――

男が階段をトントンと上がって来た。フクタの部屋の前に立つと、コンコンとノックをした。
暫く待っていたが、返事ががない。
「開けるぞー」
男がフクタの部屋に入ると、フクタは机の上に図鑑を広げたまま眠っていた。男はフクタの体を抱き上げると、ベッドに寝かせ、電気スタンドの明かりを消して部屋を出て、またトントンと階段を降りて行った。
食卓でフクタの母親が、
「パパぁ? どーだった、フクタ? 今夜は珍しく自分の部屋に行ったのよ」
「机の上で図鑑を広げたまま眠ってたよ……」
「あらっ、フクタも本当に菌が好きねぇ……お爺さんに似たのかしらねぇ……お爺さんも菌が好きだったものねぇ……」
「あぁ……そうだな……好きだってことだけは、確かだけどな……」
「えっ? 何?」
フクタの父は聞こえなかったのか、それには答えずテレビを見ている。
フクタの母は、聞いておいて気にする様子もなく夕飯の後片付けを始めた。

――

翌朝、フクタが目覚めると、いつの間にかにベッドで寝ている事に少し驚いたが、それよりも気になる事があるらしく、急いで地下室に降りて行った。
小さな声でボソボソと
「わかった、わかった」
と言っている。今日は日曜日なので、一日中、地下室に籠もれるので、フクタは気分が良かった。

――

施設長が右へ左へとせわしなく歩いている。
「おい! まだか? ガキの二人くらい、さっさと捕まえられないのか! いったい何時間経ったと思ってるいんだ! 朝になるぞ! このままでは所長に報告しなければならなくなるぞ!」
「ははー、どうやら下水道に潜ったようだとの知らせが入りました。ヤツラのどちらかが持っていたと思われるハンカチが落ちていたようです。今、別の場所を探させていた連中も、下水道の中に潜らせましたので、時間の問題かと……」
「そーか、そーか、でかした。あのガキどもそんな所に隠れてやがったか、脅かしやがって、いーな、ガキどもに逃げられた事は他の連中には漏らすなよ!」
「ははーもちろんでございます」
施設長は少し落ち着きを取り戻したものの、まだ安心は出来ない様子で、椅子に座る事が出来なかった。

――

タキシがウージを揺り動かしている。
「ねぇ、ウージ君! ねぇ、ウージ君てばー、ねぇー、起きてよ!」
「むにゃむにゃ……なんだよ、お前、あと出しだろうよ、へへ、」
「ねぇってば! ウージ君、なんか、おかしいんだようー、周りがチャチャチャチャ、ズチャチャチャって大勢の足音がするんだよー、ねぇーウージ君、起きてよー」
「えっ? なんだタキシ……お前、こんな時によく眠れるなぁ」
「なに、寝ぼけてるんだよぉう、寝てるのウージ君の方じゃないかぁ」
「えっ? 俺も寝てたのか、うん、どーりでスッキリした。よーし元気、ゲンキ! 回復したぞー。今日も走るぞー」
ウージはバッ、と起き上がると、両手を上げなら、屈伸している。
「ちょっと、大声出さないでよう。ウージ君、耳を澄ませて」
「うん、音? ……」
ウージにもようやく周りのチャチャチャチャと湿った地面を走り回る大勢の足音が聞こえた。
「おい! こ、こりゃ、囲まれてるくせぇぞ! バカ! 何でもっと早く起こさねえんだ」
「僕も気づいた時には、こんな感じだったんだよぉう……でも、どんどん足音が増えて来てるよぉー。ほらっ! あっちからも、こっちからも……」
「と、とにかく、そうだ、そこのハシゴみたいなヤツ、登ってみよう」
ウージは近くに登れる足場を見つけて、登り始めた。タキシもそれに続く。
「おい! なんか、風がスースーする……横穴があるみたいだぞ! タキシ、ここに入ってみよう」
「えぇー……何か、そこ下水道の壁が壊れているみたいだよ、崩れてきそうで、怖いよぉう」
「ちっ! しょうがないだろ、このままじゃ捕まっちまうぞ、この狭い穴なら、あいつらも入ってこられねぇよ。それに中から土で塞いじまえば、ヤツラも気づかねぇんじゃねぇか? 俺だって、今、風を感じて気づいたんだからよぉ」
「うん、僕、ウージ君についていくよ」
ウージはハシゴから横穴に飛ぶと、上手い具合に穴の中に入った。
「ウージ君、うまい、うまい、凄っい! ムササビみたいだねぇ」
「へへっ、……って、いいから、お前も来い!」
「うん、行くよ!」
タキシも飛んだが、穴には入れず、穴の入り口に両腕の肘を引っ掛ける感じで止まった。
「ってぇ……」
「タキシ、大丈夫か?」
タキシは何も言わずに足をバタバタさせて這い上がって来た。
「ふ~ウージ君、やっぱり凄いね、僕はウージ君みたいには行かなかったよ」
「よし、タキシ、穴塞ぐぞ、良いか? 風があまりそっちに流れない程度に塞いでおけば良いから。もしかしたら行き止まりかもしれないから、完全に塞がないようにしよう」
二人は周りの土を堀ながら、入り口付近に盛っていった。
「ねぇ、ウージ君、ここ崩れないかな? 怖いね」
「そ、そーだな、よし、もう、こんなもんで良いだろ、よし、先に行ってみるぞ」
二人は横穴を四つ這いになりながら進んで行くと、意外にも奥へ行けば行くほど広くなっていった。
「ウージ君、これなら、しゃがみながら進めるね」
「うん、少しは楽だな」
二人が尚も進むと、突然行き止まった。
「ありぁ……行き止まりになっちゃったよ」
「ひゃー! ウージ君、引き返す?」
「ちょっと待て、確かに風を感じたんだよ。あっ、ここだ、ここから風が来てる」
「ホントだ! 隙間があるね」
「よし、押してみるぞ、タキシも俺の背中を押してくれ!」
二人が思い切り押すと、ズズッ、ズズーーと、その壁が少し動いた。
「! !」
「よし、もっと行くぞ! タキシ、もっと力一杯押せぇ!」
「う、うん」
「せーのー!」
ズズッ、ズズズズーーーーズシャーーーガラガラガラガラーー
「ひゃーー死ぬーー」
二人は壁を壊して前のめりに崩れて行ったことで、天井が落ちて来たと勘違いして、暫く目をつむったまま動けなかった。
ウージが恐る恐る目を明けると、彼らを見下ろす人影が見えた。
「うわぁー、しまった見つかったかぁ! くっそう、捕まってたまるかぁ! 俺は戦うぞ!」
ウージは座り込んだままファイティングポーズを取った。
タキシもこわごわと薄目を開けて、暫く、ウージとその人影の様子を見ていたが、タキシ独特に人懐っこい声で、恐る恐るではあったが、
「おはよう」
と言った。
「えっ? タキシ、お前……なに言って」
「おはよう」
小さな声がボソッと聞こえた。
「へっ? 何てって?」
ウージもようやく冷静になって薄明かりの中で、声を発した相手をよく見ると、子供だった。
「へっ? お前も逃げて来たの?」
「違う……」
また小声でボソッと聞こえた。
「へっ? あんだって?」
その子供は何も言わずに、深刻そうな表情で考え込んでいる。
「ぼ、僕、タキシ。こ、こちらがウージ君。よ、よろしくね」
「ば、バカ、タキシ! こ、こんな、ガキに名乗るな!」
「フクタ」
子供は小声でボソっと答えると、急に階段を登り始めた。
「な、何だ! お前、待て、ガキ! どこに行く! ここにいろ! 仲間を呼ぶ気だな?」
ウージが吠えると、そのフクタと名乗った子供は人差し指を口に当てて、シーという仕草をした。
そして、「手伝って」と小声で言うと、階段を登って行った。
ウージとタキシは何が何だかわからなかったが、このフクタと名乗った子供が自分達の敵だとはどうしても思えなかった。
「ねぇ、ウージ君、あの子……フクタ君って子について行ってみようよ、今、手伝ってって言ってたし」
「へっ? フクタぁ? タキシお前! どうしてアイツの名前、知ってんだ? 知り合い?」
「えっ? あの子がそう言ったじゃないか」
「えっ? あのボソって言ったヤツか? で? 手伝えって言ったって?」
「うん、そう言ったよ、ついて行ってみようよ」
「お前、よく、あんな不意打ちみたいなやつ聞こえるな」
「ウージ君の耳が悪いんだよ、あんな大勢の足音でも気持ち良く眠ってられるんだものぉー」
「それを言うなよ。と、とにかく、あのガキの後、追いかけよう、チクるようなら、ぶ、ぶっ飛ばさないといけないからな」
二人が階段を登って行くと、ドアが開け放たれていて、そこを出ると目が眩んだ。
「うわぁ、ま、眩しい」
二人が光に目が慣れて周りを見渡すと、そこは廊下で、廊下の先には開け放たれた玄関が見えた。
フクタと名乗った少年の姿はどこにも見当たらなかったので、玄関の外に出て行ったのだろう。
「おい、タキシ! まずい、あのガキ、外に出たぞ!」
ウージは廊下を走って玄関から飛び出したので、タキシもその後を追いかけた。
玄関を出ると、横に小道があり、その向こうに緑の庭が見えた。
玄関の外の道路に通じる門扉は閉まったままだったので、恐らく庭に行ったのだろう。
二人が行ってみると、フクタと名乗った子供が土蔵から大きな袋をリヤカーの上に乗せていた。
「お、おい! お前、な、何をやってる?」
「……」
「へっ?」
「この袋をあと三袋、リヤカーに乗せてって」
タキシが代弁した。
「へっ? そう言ったぁ? 今、コイツ、そう言ったぁ?」
タキシはフクタの言ったとおり、袋をポン、ポンとリヤカーに乗せた。
それを見て、ウージも一袋乗せた。
フクタがリヤカーを押し始め、フラフラしているのを見かねて、タキシが、
「僕がやるから、どこに持って行けば良いの?」
と言ってリヤカーを奪った。
フクタは今来た道を戻り玄関まで誘導した。フクタの後をリヤカーを押すタキシが続き、その後にウージが続いた。
リヤカーを玄関につけると、フクタは一袋持ち、家の中に入って行った。タキシは二袋持ちその後に続き、ウージも一袋持ち、その後に続いた。
タキシは、さっき廊下を土足で歩いていた事に気が付いて、靴を脱いで上がり、それを見たウージも靴を脱いで上がった。
すでに廊下は土足の足跡がしっかりとついていた。
フクタは一袋持ちながら、地下室の階段をヨロヨロと降りて行った。
タキシはその後をしっかりとした足取りでついて行き、ウージも一袋を肩に担いでついて行った。
「なるほどねぇー地下室だったんだぁーー」
二人が下に降りると、フクタが二人が開けた穴の中を覗いていた。そして袋を開けると、穴の向こう側にザザーと開けた。
「……」
フクタが小声で何か言うと、タキシがコクリと頷いて、持っていた二袋の中身もザザーと穴の向こう側に開け、ウージから一袋を受け取ると、またザザーと開けた。
すると部屋の中に、酷い肥料の匂いが充満してきた。
「なんだ! 臭ぇー。これはひどい、おい! タキシ、どうなんてるんだ? このガキおかしいんじゃねぇか?」
フクタは急いで、匂いの元を塞ぐように二人が崩したブロック塀を積み上げ始めた。
「ウージ君、今度は、この崩したブロック塀を元に戻してってさ」
「お、おぅ!」
三人がかりでどうにか、ブロック塀を元に戻した。
三人はいつの間にか汗だくになっていた。フクタはタキシに何か言うと階段をギシッギシッと登って行った。
「ふーー、一体何だって言うんだ?」
「僕らが追われているって言うのを聞いたから、もし追手が来ても、あの肥料の匂いを嗅いだら、こっちまで来ないんじゃないかって」
「へーーー? そう言う事! ハハハハッハハッ確かに! あれじゃ来ないよな」
「それに土が柔らかった理由を上に畑でもあってモグラが掘った穴じゃないかって、勘違いしてくれるんじゃないかって。あのフクタ君って子、頭良いよ」
「ハハハッ……そりゃ傑作だ! ところでアイツ、上に何しに……まさか……アイツ!」
ギシッギシッと階段を降りて来たフクタは、お盆の上にコーラの缶とコップを乗せて降りて来た。
フクタが、コーラの缶のタップルをポキッ! プシューーと開けた瞬間、
「ヒャーーー!」
とタキシが奇妙な悲鳴をあげた。フクタはビクンとして固まる。
「お、おい、タキシ! しっかりしろ! よく見ろ、缶のフタだ!」
ウージは震えるタキシの背中を擦りながら、落ち着かせると、フクタの方を向いて、
「わ、わりー、ちょっと驚かせたな。何でもねぇんだ。おい、タキシ、落ち着け、落ち着け……な?」
タキシは落ち着きを取り戻して、ゴメンとフクタに謝った。
フクタはコーラの缶からコップにシュワ~と注ぎ込むと、またタキシが、
「ヒャーー!」
と悲鳴をあげた。フクタはびっくりして、缶を強く握りしめた。
ウージは一瞬、不思議そうな表情を見せたが、すぐに何かに気づいたようで、またタキシを落ち着かせながら、フクタに、
「なぁ、悪ぃーけど、その、炭酸飲料はやめてくれねぇか? み、水で良いわ」
フクタは不思議そうに表情でタキシを見ていたが、頷くと、また階段を上がり、今度は、麦茶とコップを乗せて降りて来た。
フクタがコップによく冷えた麦茶を注ぎ二人に手渡すと、二人は慌ててゴクッゴクッと喉を鳴らして一気に飲み干した。その後、ウージは一杯おかわりして、タキシは三杯おかわりした。
ウージとタキシはようやく自分達の気持ちが落ち着いて来たの感じた。
ウージがフクタに
「お、お前……もしかして……俺らを匿ってくれるつもりか?」
「……」
フクタはそう言った後、心配そうにタキシを見た。
「何だってぇ? おい、タキシ! 今、このガキ何て言ったぁ?」
「う……ん……ウージ君、その怒らないで聞いてよ? フクタ君が言う事も尤もだよ。僕も逆の立場だったら、そう言うと思う」
「えっ? な、何だ? コイツ敵か? 敵に回るってか? 上等だーやってやろうじゃねぇか、ガキの分際でぇ!」
「いや、ウージ君、落ち着いてよ。フクタ君は、何があったかわからないけど、これ以上巻き込まれるのはイヤだって……飲み終わったら、まだ、お父さんとお母さんが寝ている間に出て行ってくれってさ」
「はん、なるほど……ね……そ、そりゃ、そーだよな……うん、わーったよ、出て行けば良いんだろ? そーだよな……父ちゃんと母ちゃんが元気なうちにな。でもな、これだけは覚えておけよ! だ、誰かが、やらないとな、大変な事になるんだからな!」
「ねぇ、ウージ君、よそうよ! こんな小さな子に可哀想だよぉう! ね、早く、行こう、ウージ君」
「……そうだな、えっと……フクタって言ったか……ゴメンな、迷惑かけたな、サンキューな、じゃ!」
ウージは飲み終わったコップをお盆に戻すと、ギッギッギッと地下室の階段を駆け上がり、タキシもその後に続き、玄関から出て行った。
フクタは、雑巾を絞り、廊下の床をきれいに吹いてから、さて……母親が花壇用に近所の農家の人から分けて貰った肥料が消えた言い訳をどうしよう? と考え始めた……

――

大広間の両側の壁には、屈強そうな男達がびっしりと張り付くように列になって立っていた。
その部屋の中央に王のように座っている老人が、
「施設長、その方、研究員の子供、二人も逃がした、というのは本当か?」
太く低くしわがれた声が響くと、その老人の前に跪かされていた施設長が震えながら、
「申し訳ございません! なにとぞ! 何卒、もう少しだけお時間を頂きたく……」
その言葉を遮って、
「では、逃した……のだな?」
「いえ、本当にすばっしこいヤツラでして、下水道に入った事だけは確かだったのですが、犬の鼻も効かなくなり、どうにも消息が掴めなくなってしまいました。もしかすると、ヤツラを匿っている者がいるのかもしれません。まったく本当にイマイマしいヤツラです!」
施設長が興奮して喚いた。
「なるほど。話は理解した。では、与えなさい」
「えっ? なにとぞ何卒、罰だけはーーご勘弁をーー!」
「では、始めなさい!」
「ギャーーーーーーーーぁーー…….あれっ? ……えっ? ……所長さま? こ、これは恩恵では?」
「いかにも、お前が以前から欲しておった恩恵を与えよう」
「えっ? 何故、失態を犯した自分に恩恵を……私はてっきり罰を受けるものを思っておりましたが……」
「”何か失敗をしたから罰を与える”……いかにも人間的な考えだ。そうではない。そうではないぞ……失敗したという事は、お前の心の中に無駄な感情が渦巻き、思考を鈍らせたという事なのだ。自分で感情をコントロール出来るのなら、それはそれで良い。だがそれが出来ないものには救いがないのか? それを救うのが教えであり、その教えを具体的な技術で補完するのが恩恵なのだ。お前の失敗やミスを攻めたて、罰というハンディを与える事に何の意味があろうか。より恐れ、緊張し、お前に罰を与える原因となった子供らを憎み、その憎悪という感情がまたお前から冷静な判断力を奪い、失敗に失敗を重ねる悪循環を生み出すだけではないか? そうではない、そうではないのだ。我々研究所がお前達に与えるものは、その悪循環を断ち切る術なのだ。さぁ! 哀れな感情の下僕よ! 恩恵を受け取るが良い」
「ははーー所長さまー」
「恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ!」
列席している屈強な男達が口々に唱和を始めた……

――

ウージとタキシはフクタの家から出て、ウージを先頭に歩き始めた。
ウージは、外に出てからずっと押し黙ったまま歩いている。タキシは心配そうに時々、ウージの横に並び、横目でチラチラとその様子を見ては、何と声をかけたら良いかわからず、口を開けかけては、閉じ、歩みをゆるめ、後に下がる。そんな事を繰り返していた。
それでも、ようやくタキシは意を決し、ウージの横に並ぶと、その声変わりしはじめの低めの声で、
「ウージ君、仕方ないよね。僕ら、いかにも怪しいものね……フクタ君もお父さんとお母さんが大事なんだよ」
「……」
タキシは黙ったまま歩いている。
「だけどフクタ君は、小さいのに肝っ玉が太いよね。普通、あんな所から壁が崩れて僕達みたいのが現われたら、大声くらいあげるし、根掘り葉掘り聞いて来るよね」
「……だな……」
ようやくウージを一言返して来た。
タキシは嬉しくなり急に笑顔になり、
「またフクタ君と会えると良いね」
「タキシ……お前ってヤツは……妙な所に鋭いかと思えば……鈍い所は相変わらず鈍いなあ~」
とウージはしみじみとした調子でタキシを見上げた。
「な、何だよ! 僕のどこが鈍いのさ!」
タキシはウージを睨みつけた。
「なぁ、タキシ……別に俺は、あのガキの事なんて何とも思ってねぇよ。元々、あんなガキに頼らねぇと、逃げられねぇんじゃ、先行き真っ暗ってもんだろ? 俺は、どこに隠れたら良いか考えてるんだよ。ちっとはお前も考えろよ! あのガキの事は忘れろ! 所詮俺たちには通りすがりのガキだろ?」
「そ、そうだね……」
また二人の間に沈黙が流れた。
「あっ! そうだぁ! あそこはどうだろう!」
タキシはさも、名案が浮かんだというような目でそう言った。

――

フクタがまた地下室でシャーレの記録をつけていると、階上から、
「フクタぁ! 朝ごはん出来たわよー早く上がってらっしゃあーい!」
という母親の呼ぶ声がした。
フクタは、書きかけていた記入をすませると、ノートを閉じて棚に置き、ギシッ、ギシッ、ギシッと階段を上って、ダイニングに入る。
すでに父親と母親が座って食べていた。
「パパ、これから会社だってぇ。休みなのに大変ねぇー。今日は、お天気が良いから、どこか遊園地にでも行こうと思って、いろいろ用意してたのにぃー、ねぇフクタも残念よねぇー」
「別に」ボソッとフクタが言った言葉をかき消すように、父親が、
「いやー会社と言ってもな。今日は仕事じゃなくて研修なんだよ。それも会社っていうより、会社の上司に個人的に誘われてさ。その人、最近、調子が良いんだわ。それで、何か秘訣でもあるんですか? って聞いたら、君は見所があるって、君にだけ特別に良い研修を紹介しようって、上司もその研修のおかげで、調子が良くなったんだって言うからさぁ、ちょっと胡散臭い気もするんだけど、一応、直属の上司だしな。断るにしても行ってみて何か理由を見つけないとね……」
「パパも大変ねぇ、良いわ。帰りに何かケーキでも買って来て。それで許す!」
「ケーキ限定」ボソっとフクタが言ったのをかき消すように父親が、
「そーだ、フクタ、昨晩、お前、机の上で寝てたんだぞー。パパがベッドに運んでやったんだぞー、風邪ひくから、気をつけるんだぞ、ハハハ」
父親は愉快そうに笑い、フクタは父を見て少し大きく目を見開いたあと、二回うなずいた。一回目はナルホド! 謎が解けたよパパ。二回目はアリガトウという意味だったが、そんな事は誰にもわからない。
それからしばらくして父は外出していった。
フクタはいつものように、日中、シャーレを観察して記録を取っては、わら半紙の束や図鑑、百科事典とにらめっこして過ごしていたが、たまに今朝の二人の少年の事を思い出して、無事に逃げられたのだろうかと考えたりした。
ふと、フクタは地下室に二人が飲んだコップが置きっぱなしになっている事を思い出した。
片付ける前にちょっとした好奇心からだったのか……それとも何か胸騒ぎがしたからなのか……
フクタは、二人のコップからサンプルを取り顕微鏡を覗いて、暫く見ていたが、やがて体が小刻みに震え出し、その震えが止まらなくなった。
ようやく顕微鏡から目を離すと、椅子の背にもたれかかったまま、何時間も呆然と宙を見つめていた。そしてブルブルと震えては涙を流した。

夕方になり、母親の夕飯を知らせる声が聞こえ、食卓に座ると、すでに父親が座っていた。
しかし何となく父親の雰囲気がおかしい。何か物思いに耽っているような、何かに取り憑かれているような、怪しい雰囲気を発していた。
「パパ? 帰って来てから、ずぅーっと様子が変よー。どーしたの? 研修で何か嫌な事でもあった?」
「えっ? いや、別に……」
その後もずっと、母親がいろいろと話かけたりしたが、途中で諦めて、自分の話を一方的に話して食事の時間は終わった。母親が食べ終わっている食器を片付け始めた時、唐突に、まさに唐突に、
「俺、あの研究所に入るわ」
と父親が言った。
「へっ? パパ、その……何? 研究所って? 今日、研修に行って来たじゃなかったの?」
「研修だよ? そう、教えてもらったんだよ。そう、いろいろとこの世の成り立ちについてね。とても親切にわかりやすく教えてもらったんだ。それは、もう目から鱗が落ちる話ばかりさ。でも、残念ながら、話の内容については家族にも秘密って言われているから話せないんだな。でも、俺は決めた! あの教えをもっと知りたいんだ。そうすれば、俺もあの上司の人みたいに出世の道も開けるし、給料もバーンと上がるから、お前らにも、もっと良い暮らしをさせてやれるぞー。ママにも良い服買ってあげられるし、フクタにも、もっと一杯ゲーム買ってやれるぞー」
「私は、そんな事より、ケーキ! ケーキ買って来てくれなかったの、まだ怒ってるんだからねー。夕飯の後、しばらくしてから紅茶飲みながら食べて、ドラマ見てって楽しみしてたのに。研究所でも大仏でも勝手になればいいけどね、今度、ケーキ、忘れたら、そーねー……線香でお灸をすえてやるから!」
「はは、すまん、すまん、ずっと考えゴトしてたもんだから、つい……」
フクタは、そんな父親をじっと不思議そうに見ていたが、ポケットから、メモ帳を取り出すと、何かを書きつけて、ポケットにしまった。
「そうだママ! 来週の日曜日、フクタも一緒に研修に行かないか? きっと、びっくりする事請け合いだよ。なぁフクタ! 行きたくないか?」
「いやよ! パパ! 日曜に勉強なんて! フクタもイヤよね? そうでしょ? フクタ、裏切っちゃダメよ! フクタだってケーキ楽しみにしてたもんね?」
フクタは席を立つと、ダイニングから出ていき、地下室へのドアをギッと開けた。
「こらーーフクタ! 逃げるなぁー! って、パパ! ほらっ! これがフクタの答えよ。行きたくないって、日曜日に勉強なんてどうかしてるわよ」
「お前は、いつでも勉強してないだろ」
「な、何よーーーせっかく、ケーキ買って来なかったの許してあげたのにーー!」

次の日の月曜日、普段、学校がある日のフクタの朝は早い、一通り、シャーレの記録をすませると、急いで朝食を食べて、家を出る。そして、学校に行く道すがら、足を止めては虫や花など観察している。
途中途中、引っかかるのを計算しておかないと遅刻してしまうので、小学校の低学年のうちは母親がついて来て、もう行こうね、と手を引いて、通わねばならなかった。そのうち、家から学校まで実質十分の道のりを一時間前に家を出す事にして、フクタの母親はようやく、開放されたのだった。それでもたまには計算よりも大幅にずれて、遅刻してしまう事があった。

フクタが下駄箱につき、上履きを取ろうとすると、中に紙切れが入っていた。紙切れを開けると中に”バイキン”と書かれている。
フクタはその紙切れをポケットに入れると、上履きのまわりに何かついていないか注意深く観察してから、上履きを床に置いて履き替えた。
スタスタと廊下を歩いて、教室に入ると自分の席についた。これから学校が終わるまで、その席から離れるつもりはなかった。
「おっ、バイキン! 今日は、母ちゃんと一緒じゃないのに遅刻しなかったな」と、恐らく上履きに紙切れを入れた主が声をかけて来た。
フクタは黙ったまま、前の席の椅子をじっと見ている。
「おい! フクタ! 無視してんじゃねぇよ! この虫が!」
「なんだよ、ダジャレかよ! キャハハ」いつも連れ立っている子供が笑っている。
「ば、ばか、そんなんじゃねえよ、えっとバイキンが! お前、ずっと椅子に座りっぱなしだから、菌が生えてるんだよー」
チャイムが鳴って教師が入って来ると、みんな急いで自分の席に戻って行った。
授業中は相変わらず、後の席の子供が消しゴムのカスを投げたりしていたが、それほどエスカレートしてい行く気配はなかった。
フクタの帰りが遅いのを心配して、たまにフクタの母親が学校に迎えに来る事があるのを見た事があったせいかもしれない。
それでも最近は、学校が終わってから一時間以内には帰って来るようになっていた。フクタはなるべく急いで帰って、シャーレの記録を取る必要があったからだ。

「最近、フクタ、帰って来るの早いわね。ママ助かるわー」
本当に心配事から開放されたという感じでフクタの母親はたまに嬉しそうに言うのだった。
母親はせんべいをバリっと食べながら、視線をテレビの方を向けながら、
「そう言えば、フクタ、最近、物騒なんだってよ。学校帰りとか気をつけるのよー。とにかく食べ物が盗まれてるんだって、怖いわねー。勝手口とか開けておくと、さっと台所にあったもの取られるって話よー。倉庫に入れてあった果物なんかもダンボールごと盗まれたって話よ。浮浪者かしらね、ウチの裏の公園でも洗濯物が干されてたんだってよ。警察もだいぶ探してくれてるみたいだけどねー捕まらないみたいねー」
フクタは、母親がどこかヒトゴトみたいに話しているのを聞きながら、心の中で、その食べ物が盗まれているという事件と学校の帰り道が危険という話はつながらないなと思っていた。
そして、その食べ物が盗まれている事件は、きっとあの二人の仕業に違いないと思っていた。あれから、どこに逃げたのだろう? 逃げた先で上手くやっているのだろうか? とたまに心配していたが、何の事はない、この辺りに潜伏しているのだ。
ところで彼らは何者から逃げているのだろう。地下道なんて通らないと逃げ切れなかった相手だし、警察に助けを求めていない所から、ちょっと彼らが手に負える相手ではない事は明白だった。
そんな相手に自分が関わりを持っても何も出来ない事もまた明白だった。
しかし、それでも……彼らを追い出して後ろめたさを感じていた、というだけではなく、フクタには彼らに会わなければならない理由があった。いや、その理由を見つけてしまったといった方が正確だろう。
彼らが壁をぶち抜いて現われた、地下室の片隅を見ては、焦燥感を募らせていた。

――

「ねぇ、ウージ君、本当にここ使っちゃって大丈夫かなぁ……」
タキシは不安そうな顔でウージに聞いた。
「し、仕方ねぇだろ! それに、ここはどうだろう? って言い出したのお前だろ!」
ウージは盗んで来たリンゴを食べながら尻をかいている。
「やっぱりさぁ、そのうちバレたら、絶対、フクタ君、怒るよ」
「ほ、他にこんなに広い土蔵、持っている家なんて、そうそうないぞ? それにしてもタキシ、良く思いついたな。俺、あんとき夢中でさ……、よく見てなかったぜ」
ウージは、尚もリンゴを食べなら、今度は背中をかいている。
「そっか、こういうのを土蔵って言うのか。凄いよね、僕、こういうの憧れだったからさ、あの土を運んだ時から、惹かれてたんだよ。でも、こんな事も長く続けられないよねぇ……」
と、その時、ガラガラッ、ガラガラッと土蔵を開ける音が聞こえた。
「おい! タキシ! 隠れろ! 誰か入って来たぞ!」
「もう、隠れてるよ! こっち、こっち」
タキシは土蔵の奥で手招きしている。
入った来た人間は懐中電灯を手にして、しゃがみ込み、しきりに土蔵の下を照らしているようだ。
クンクンと匂いを嗅いだ後、何かボソっと言った。
すると、突然タキシが飛び出し、
「ご、ごめんねぇー……僕ら行くところがなくてさ……」
「ば、バカ! タキシ! 何で自分から出て行くんだ!」
「ウージ君、無駄だよ、フクタ君にはバレてるんだよ。と、言うか、わざと鍵を開けておいてくれたんだって。そりゃ、そうだよねー、都合よく土蔵の鍵が開いてるわけないよね」
と言いながあタキシは笑っている。
「わ、わざとぉ? 鍵を開けておいた?」
ウージは呆気に取られた顔でフクタを見たが、逆光になっていてフクタの表情はよく見えない。
「…………」
フクタがまた何か言うと、タキシが
「フクタ君のお母さん、この時間はいつも夕飯の買い物で家にいないんだって、だから風呂入っていけって、僕ら臭いってさ」
タキシはへへへと笑い、ウージはしきりに自分の服を引っ張って匂いを嗅いだ。
フクタはスタスタと歩いて土蔵を出て行った。
「ウージ君、ここは、お言葉に甘えようか」
タキシが嬉しそうにフクタの後について土蔵を出て行った。
ウージも仕方なくタキシに続く。
それから二人は二週間ぶりに風呂に入った。
フクタは二人が脱衣所から風呂に入ったのをドア越しに確認すると、急いで地下室に駆け降りてからシャーレを持って上がって来て、台所に入った……

ウージとタキシが風呂から上がると脱衣所に着替えが用意されていた。
二人が着替えてさっぱりとした様子でリビングに入って来ると、フクタが何か言った。
タキシが、いつものように翻訳する。
「お父さんのだから、大きいかもって」
確かにその服はウージには大きかったが、タキシにはピッタリだった。ウージは悔しそうに腕まくりして、ズボンの裾も二重まくりにしていた。
ダイニングに呼ばれると食卓には料理が用意されていた。と言ってもレンジで温めれば済むだけのレトルトのカレーだったが……
それでも二人にとってはごちそうだった。
フクタは二人が食べている様子を気味が悪いくらい眺めていたが、二人はフクタのそんな視線には気付かない様子で夢中で食べている。やがて二人がしっかりと食べ終わるの確認すると、フクタは安心した表情になった。
タキシは一瞬、お代わりと言って皿をフクタに渡しそうになって、慌てて手を引っ込めた。
ウージは満腹になって機嫌良くなったのか、まじまじと家の中の様子を見ながら、
「それにしてもお前ん家はデカイな~今どき、土蔵のある家なんてないぞ」
「…………」
「へーー、そうなんだ。曾お爺さんの代からの家だってさ、えっ? ププッ、そ、そうか! た、タキシ君、そろそろフクタ君のママが帰って来るから、僕ら、また土蔵に戻らなくちゃ!」
タキシがにやにやしながら言うと、
「そ、そうか! じゃ、サンキューな! あとよろしくな!」
ウージ達は慌てて、フクタの家のリビングの窓を開けて退散した。

土蔵に戻ると、タキシが急いで扉を閉めた。また、真っ暗な静寂に包まれる。
「この時間帯は毎日、お母さんが買い物に行って二時間くらいは帰って来ないから、大丈夫だって言ってたよ」
「そーか、それは助かったな。ところでお前、よくあのチビが言ってること、聞こえるなぁ。俺にはさっぱり聞こえねぇよ。最初はもしかして、お前が勝手に解釈してるのかと思ってたけど、ちゃんと噛み合ってるもんな」
「勝手に解釈なんてしてないよ。フクタ君、確かに口数は少ない子だけど、結構、口うるさいところあるし……」
「な、何? あのガキ、何て言ってたんだよ?」
「えっと……その……うんと……その……」
「何だよ?」
「あの……パンツを裏の公園に干すな! って。ヘヘ……」
「ププッ、確かに! あれは俺もやめて欲しかったんだ。ハハハ……」
「なんだよぅ! じゃ、どうするんだよぉぅ! 仕方ないじゃないかよぉー!」
「ハハハ……確かに、どうするかだよなぁ……あっ! それと今、部屋出て来る時、お前笑ってたろ? あれ、気になってたんだよ。何て言ってたんだよ?」
「あぁ……あれねぇ……ププッ、あの子、大人しいけど明るい子だよ。ププッ、冗談とか言うし」
「えーーー! う、嘘だろーいつ言ってたぁ! 俺には何も聞こえなかったぞー?」
「だって、ウージ君は、全部聞こえてないんでしょ?」
「まぁな……で……さっき何て言ってたんだよー」
「『もうそろそろ、お母さんが帰って来るから、土蔵へどうぞ』って、ププッ」
「はぁーーー? な、なんだよ! ダジャレかよー! くっそぅ……聞くんじゃなかったぁ……あんの……ガキぃー」
文句を言いながらウージも顔は笑っていた。

日曜日の朝、フクタが朝食に呼ばれ、食卓につくと、
「フクタぁ……また、パパ、今日も研修だってぇ。もうーホントにパパどうしちゃったんだろうねぇー。ママは、つまんなくて退屈ですよーだ。そうだ! フクタ、新しく出来たショッピング・モールに行こっか! それで、二人で美味しいものいーーっぱい食べちゃおうっか? ねぇ、いいアイデアだと思わない?」
フクタは慌てて、食べ物を口に詰め込むと席を立ち、地下室へ逃げて行った。
その後姿を見ながら、
「あっそ……」と、目を細めムッとしていると、
「じゃっ、俺も行ってくるな。今日はケーキ忘れないからハハハ」
と慌てて父親も出て行くった。
「仕方がない、一人で買い物に行きますか……そうと決まれば、こうしちゃおれないわ、着替え、着替えと……」
母親も忙しくなりそうだ。
昼ごろになってお腹が空いたフクタが地下室から上がってくると、すでにウージとタキシが食卓で食べていた。だんだん遠慮がなくなって行くようだ。
「おぅ、邪魔してるぜぇ」
ウージがそう言うと、タキシが、
「へへ、フクタ君のママが車で出て行くの土蔵の二階の窓から見えたんだ。フクタ君は地下室で忙しそうだし、へへ、悪いとは思ったんだけど、そのぅ……」
「…………」
「あ、ありがと。ところでフクタ君は地下室でいつも何してるの?」
フクタは珍しく答えずに、台所でヤカンに水を入れて火を付けた。
タキシが動揺して、
「い、いいよ、いいよ、誰にでも、答えたくない事なんてあるもの」
「俺は別にあんなガラス皿の中身なんて興味ねぇな。好きにすりゃあ良いじゃねぇか。それよか気になるのは、まだヤツラが俺たちの行方を追っているのか? ってことだよ。あれからだいぶ経つけど、もう探しているようには見えないんだよな」
ウージは真剣な眼差しで外を見ている。
「ねぇ、ウージ君、ちょっと、ここでその話をするのやめようよ。でも、確かに僕ら二人が逃げたところで、警察にまで手を回してるんじゃ、何も出来るはずがないって諦めたのかもね」
「だと良いけどな。でも無事に逃げ延びたところで俺ら一体どうなっちまうんだろな」
「どうって……捕まったらおしまいな事だけは確かだよ」
タキシも先の事は考えたくなかった。
ウージは段々と気が緩んで来るのと同時に、弱気に気分になって来ていた。
「いつまで、このまま隠れ続けなくちゃ、ならないんだ? もしかすると一生、土蔵で暮らすはめになるのか? なぁタキシ!」
「そ、そんな事、僕に言われたって」
タキシが泣きそうな顔になっていると、フクタが何かボソっと言った。
「フフ……」タキシが力なく笑う。
「タキシ! あんだってぇ?」
「うん。心配しなくても、フクタ君が大きくなる前に土蔵から追い出してやるってさ」
「ハハ、そうだな! そのうちお前に追い出されるよな、ハハ、そりゃそうだ!」
三人は少し愉快な気分になって笑った。
その時、ヤカンのお湯が沸いてキューー! という音が鳴った。
「ヒャ~~~!」
タキシが悲鳴をあげてしゃがみ込んで震え出した。フクタはタキシの様子を見て、驚いて固まっている。
ウージが慌てて台所に走って行き、ガスの火を止めて、
「タキシ! しっかりしろ! ヤカンだ! ヤカンの音だ!」
タキシは震えながら立ち上がり、はぁ、はぁと息を切らしながら、フクタに謝った。そして台所の方を振り向いてヤカンを確認した。その時、ヤカンの口から白い湯気が立ち昇っているのが見えると、また、
「ヒャ~~~!」
と悲鳴をあげて震えだした。
「もぅ、バカ! しっかり、しろ! お前、湯気もわからねぇのか!」
タキシは暫く肩で息をしていたが、やがて少しずつ落ち着いて、フクタの方を見ると、恥ずかしそうに、少し中腰になりフクタと視線を合せて、
「ゴ、ゴメンよ……僕、何でも怖がって……へへ……僕、臆病なんだ。もう、大丈夫、もうホント大丈夫だから、脅かしてゴメンよ」
と言って笑った。フクタもタキシの笑顔を見て、落ち着いて、笑い返した。
その時、車のエンジン音が聞こえて来た。ガラガラガラッ、続いてシャッターが開く音も聞こえる。
「あっ! フクタ君のママが帰って来たよ!」
「タキシ、戻るぞ! おいガキ、じゃあ、もう、しばらく土蔵借りるぜ!」
「……」
「ププッ」またタキシが笑う。
「今のは何となくわかったよ。じゃな」
二人は土蔵の中に消えて行った。
母親は勢い良くドアを開けると、まるで何者かに追われているかのような勢いでドアをバタンと閉めた。しばらく、その閉めたドアに背中からもたれかかって、足元をボーと見ていた。
フクタは急いで地下室へ逃げ込もうとしていたが、母親の様子を見て、廊下に佇んでいた。
母親は、フクタの姿を確認すると、
「もぅ~フクタ~」と言いながら、急いでハイヒールを脱ぎ、廊下を走って来ると、跪いて、フクタを抱きしめると、フクタの胸に顔を埋めた。
「もぅ~ママ、何が何だか、わからない……もう、何なにょよー」
フクタは母親の頭をポンポンと軽く叩くと、食卓の方に目をやった。
「そ、そうね、取り敢えず座ろうね」
母親が立ち上がり、フクタの頭を撫でると、食卓に入り椅子に座った。
フクタはインスタントコーヒーをカップに二つ入れると、母親の前と自分の前に置き、 母親が尚も手を振るわせているのを心配そうに見ていた。
しばらくしてフクタがコーヒーを一口飲み、
「ッチッ」と言うと、母親は珍しくフクタの声が聞こえたらしく、
「えっ? 熱い? 大丈夫? 舌火傷しないでよう?」と言って、自分も飲んだ。
母親は一息つくと、
「ねぇーちょっと、フクタ聞いてよ。パパさぁ、さっき研修だって言って出て行ったでしょ? それがね、今、ママがショッピング・モールに行ったらさー………誰がいたと思う? パパよ! パパがいたのよ! パパがなんか胡散臭そうな連中と一緒に列になって、パンフレットみたいなのとか配ってたのよ。それが、やけに嬉しそうにニタニタ作り笑いなんて浮かべちゃってさー、もう! 気持ちが悪いったらありゃしない! それに食べ物や玩具なんかも配ってたのよー」
さすがにフクタも面食らって、一瞬宙を仰いだが、すぐに母親の姿を見て同情的な気分になった。
「そっか! そっか! そういうことぉ! そういう事ね、うん、間違いないわよ。最近、やけにレトルト系や缶詰系の買い置きしていた食べ物がなくなっているのよ。気のせいかと思っていたけど、パパだったのね! あぁースッキリしたけど、ムカつくぅーー何やってるのあの人ぉー!」
フクタは一瞬、母親にバレていた事に驚き、たちまち父親の仕業になった事に唖然としたが、それを否定するわけにもいかず、
「パパ、ごめん」
と俯いて小さな声で言った。
「えっ? フクタ? 何? そーよねーー、フクタもそう思うわよね。もー帰って来たら、とっちめてやんないと気が済まないわ!」

母親が夕食の準備が終わり、食卓に皿を置いていると、
「ただいまー」と父親が帰って来た。
「ふー、疲れたー」と言いながら食卓に入って来て、ケーキを置くと、
「ほらっ、今日は忘れなかった。先に風呂入っちゃうよ」というと、脱衣所の方へ歩いて行った。
そして暫くすると、さっぱりした顔にパジャマ姿で表れて食卓に座った。
「あれっ? ママっ? 俺のメシは? ママのところとフクタの所に置いてあるけど、俺のところ、忘れてるよ?」
その声を無視するように母親は食卓を出ていき、地下室のドアを開けると、階下に向かって、
「フクタぁーーご飯出来たわよー」
と呼んだ。
フクタがギシッギシッギシッギシッと階段を上がって来て、食卓につくと、父親の前に食事の用意がないのを見て、これから見る事になる修羅場を想像して、身震いした。
「ねぇ、ママったら、俺のメシぃ!」
「あらっ? 他所様のために食べ物を配って歩けるほどの人なら、自分の食事の一食や二食、抜いたって平気なんじゃないかしら?」
「えっ? 何それ? なぁ、フクタぁ、ママ、何を言ってるんだぁ? 食べ物を配るぅ? ……あっ! ママ、あれ見てたの? あれは研究所が用意してくれたものを配ってただけだよ。今日は、笑顔の研修だったんだ。いかに見ず知らずの人に警戒されないようにプレゼントを渡せるかっていう研修だったんだよ。ママ、俺の笑顔どうだったぁ?」
「そうね……あなたを最もよく知っているアタシが警戒する笑顔だったんだから、失格なんじゃない?」
「なんだよ、ママ、俺を最もよく知ってるって、フクタの前で照れるなぁ……おい! フクタそんな目で見るな! もう、ママもノロけるねぇ……」
父親は少し顔を赤くしている。
「もう、いいわ、今日はケーキも買って来てくれたし、はい、でも家からあまり災害用に買い置きしてる食べ物とか持ってかないでね!」
母親は隠してあった父親の食事を素早くテーブルの上に運んだ。
「おぉー美味そうだねーやっぱりママの手料理は最高だなー、えっ? だから家から食べ物なんて持ってってないよ。じゃ、いただきま~す」
「はいはい、じゃ、フクタも食べよう。いただきま~す」
「……」
フクタは内心ハラハラしながら見守っていたが、、事なきを得てホッとした。この二人があまり細かい事を気にしない性格で本当に良かったと思った。

――

ウージとタキシは港に来ていた。この港はすでに老朽化のため、倒壊が心配されていたので船が着いて荷揚げなどが行われる事はなかった。
誰も来ない静かな港は、二人にとって唯一安らぎの場所になっていた。
「ウージ君、海を見ていると落ち着くね。その、し、心配とかどこかに消えて行くみたいだね」
「そーだな……」
ウージはボーっと海の遠くに浮かぶ近づけば巨大であろう船を眺めていた。
「いっそのこと、海外に出るって手もありかもな」
ウージは船を見たまま、ヤケクソ気味に言った。
「そ、そんな……僕、英語とか喋れないよぅ」
タキシが心細そうにウージの顔を覗きこむ。
「あぁ、俺もしゃべれねぇ。言ってみただけだ。どうせヤツラの手が回っている。すぐに捕まるさ」
ウージは力を落としたように足元の小さな小石を拾うためにしゃがみ込むと、そのまま立ち上がらずに海に投げた。石は小さ過ぎてポチャンとも言わない。
「で、でも、ずっと土蔵の中にいた時よりは、だいぶ気分が良くなったよね。さすがにあのまま暗闇にいたら、頭がどうにかなっちゃいそうだったもんね。僕ら、たまに幻覚見てたしね……」
気分を少しでも盛り上げようとタキシが言うと、
「この海も幻覚かもしれねぇぞ? 目を開けたら、ずっとあの施設のベッドに寝かされてました! とかな……」
「やめてよぅ! それ、めちゃくちゃ怖いよ」
しばらく二人の間に沈黙が流れた。
「ねぇ、ところでフクタ君の名前ってさ、お爺さんがつけたんだって、良い名前だよね」
「そうかぁ? 変な名前だろ……」
「そうかな? なんか良いことありそうな名前だよ」
「俺らに巻き込まれてるのにか?」
ウージがちょっと意地悪そうにタキシを見上げた。
「もぅ……そうだ! ウージ君! もうそろそろフクタ君の小学校が終わる頃じゃない?」
「かもな……」
ウージはなおもボーっと海を見ている。
「ねぇ、行ってみようよ! もしかしたら、フクタ君と会えるかもしれないよ? たまには一緒に帰るっていうのも楽しそうだよ」
タキシは面白い遊びを発明したように目をキラキラさせた。
「ば、バカか! タキシ! そんな目立つ事したら、あっと言う間にヤツラに見つかっちまうぞ!」
ウージはタキシを怒鳴りつけた。タキシはシュンとしつつも、
「でもさ、実はもうアイツラさぁ、僕らの事なんて探してないんじゃないかなぁ……もしかして逃げ回ってると思ってるのって、僕達だけなんじゃないかな? もぅとっくに忘れているのかもしれないよ」
ウージは少し考えこんでいたが、
「かもしんねぇな……ちょっと、あのガキの様子でも見に行ってみるかぁ? でも遠くから見るだけだぞ!」
「うん、行こう! 行こう! もぅ僕、海、見てるの飽きたよ」
ウージが立ち上がって歩き出すと、タキシも横を一緒に歩いて行った。

――

放課後になるとフクタは重い腰をあげて、家路につく。気持ち的にはすぐに帰りたいところだが、大抵待ちぶせにあって、こづかれたりするのだった。
それでもフクタが何も言わずにじっとしていると、からかう連中もつまらなくなって、行こうぜ! と声掛け合いながら帰って行く。
しかしその日は違った。
「おい! フクタ! 俺たちは今日は機嫌が悪いんだよぉう! さっき中学生にやられちまってな……お前、いくらか金貸してくれよ。お前の家、金持ちなんだろ? でっかい家に住んでるらしいじゃねぇかよ」
「…………」
フクタは相変わらず何も答えずに下を向いて、嵐が通り過ぎるのを待っていたが、今回はどうにも去りそうになかった。
もう、かれこれ二十分ほど捕まっていたのだ。
「おい、ちょっとで良いんだよ、お前の母ちゃんの財布から千円ほど借りて来てくれよ。俺たちの事は言うんじゃねぇぞ! 言ったら、ただじゃすまないからな」
ドンっと強く胸のあたりをどつかれた。フクタは痛みでその場にしゃがみ込んだ。
と、その時、フクタをどついた子供が、イテテテッと悲鳴をあげた。
子供達が振り返ると、オッサンっぽい服装で両手、両足をまくり上げた人相の悪い少年が立っていた。その後にも体が大きいオッサンがボディガードのようにそびえ立っていた。
二人とも物凄い形相で子供たちを見下ろしていた。
「ヒーー……な、何ですか? オジさん達は、ここ小学校ですよ?」
子供の一人が言うと、
「だーかーらぁ~ん?」
と人相の悪い少年は顎を突き出しながら、子供の顔に数センチの所まで近づけた。
「ギャーーー」
と子供たちは走って校舎の中に逃げて行った。
「フクタ君、大丈夫?」
タキシがフクタに手を差し伸べて、立たせた。
ウージも心配そうにフクタの様子を見ている。
「チッ! あんの糞ガキども! ちょっと甘かったかな? もっとガッツンガッツンやっておくべきだったかな」
フクタがボソッ何か言った。
「あーん?」
「ありがとっだって、あれで十分だってさ」
「ま、今度やったら、あんなもんじゃ済まさねぇよ。じゃ、帰るか」
ウージが歩き始めたので、タキシはフクタと手をつないで歩き始めた。
「フクタ君も黙ってやられてないでさ、少しは反撃した方がいいよ。ね、ウージ君?」
タキシは自分がやられたように悔しがってウージに同意を求めた。
「まっ……人間、得手不得手ってもんがあるからな……まっ、タキシみたいな体力バカにはわかんねぇよ」
ウージは後も振り返らずまっすぐ歩いて行く。タキシは同意を得られると思っていたのに、不意打ちを食らってモゾモゾしながら、
「な、なんだよぉう、酷いなウージ君、た、体力バカはないよ。ねぇ、フクタ君?」
今度はフクタに同意を求める。フクタは顔をあげて少し微笑んだが、すぐに下を向いて歩き始めた。それから三人は黙ったまま歩き続けた。
その三人の後をつけている者がいる。さきほど校舎に逃げ込んだ子供達から連絡を受けた小学校の教員だったが、携帯で連絡を取っているようだった。

三人が家に向かう途中で角を曲がった瞬間、突然、フクタは前を歩いていたウージの服の背中を引っ張った。
「あん? 何だ! 痛えな? 今、肉つまんだぞ! えっ! 何だって?」
「ちょっと待ってって」
フクタは手をつないでいるタキシを引っ張って、曲がる前の角に隠れさせた。
それを見てウージも角に隠れる。
ウージは小声で、
「で、どーしたってぇ?」とタキシに聞いた。
「えっ? お父さん? お父さんがいたの?」
タキシがそうっと角から、今曲がりかけた道を覗くと、フクタの父が他のメンバー数人と立っていた。首から画板のようなもの下げている。
「署名お願いしまーす! ご署名お願いしまーす! 明るい町づくりにご協力下さーい。お子さんが安心して暮らせる町づくりをーーー!」
と他のメンバーと一緒に大声を張り上げている。
「へん! いい気なもんだぜ、自分の子供の安全をなんとかしろってんだよ!」
「ウージ君!」
タキシは小声で大きくウージをたしなめた。
フクタはウージの言った事を気にしている様子もなく、ボソッと何か言うと、いきなり角を曲がって父親の方へ歩いて行った。
「おい!」
フクタについて行こうとしたウージの手をタキシが引っ張って首を横に振っている。
「ここで待ってて! てさ」
「あ、そう……」
二人はフクタの様子を角から見守る事にした。
フクタは父親の正面に立つと、じっと父親の顔を見上げた。
「おっ! フクタじゃないか! どうした? 学校もう終わったのか? 今から帰るとこか」とニコニコ笑っている。
フクタが何か言ったらしく、父親がえっ? と耳を近づけた時、フクタは父親のネクタイをギュッと掴むと、不意にグッと下まで引っ張った。
「イテテテテッーな、何? フクタ? えっ? 会社? 今日は有給取ったんだよ。ママには内緒な? えっ? イテテテテテ、こ、こらフクタ放せ! わーた、わーたママに心配かけるな? ハイハイ、今日だけだよ。明日選挙だから、応援頼まれちゃって、ハハ、わぁった、わぁった、じゃ、フクタよろしくな、寄り道すんなよ」
フクタは父親のネクタイを放すと、スタスタと二人が待っていた角に戻って来て、そのまま歩き始めた。
「お、おい!」
「別の道から帰ろうってさ」
タキシはちょっと笑いながら呆れたような表情でウージを見た。
「ま、遠回りになるけど、しゃーねーな」
いつの間にか、ウージとタキシはフクタの後について行く格好で歩いていた。

――

夕食時、フクタの母親がいつものように地下室のドアからフクタを呼ぶと、すぐにフクタは上がって来てダイニングに入って来た。
フクタの母親は食事を盛りつけた皿を並べていた。フクタも手伝い始める。
「フクタはちゃんと手伝ってくれる良い子よねー」
と言いながら、フクタの母親はふと心配になる事がある。
「ねぇーフクタ、いつも帰って来たら、まっすぐに地下室に行っちゃうけど、たまにはお友達と遊ぶのも面白いんじゃないかなぁ?」
フクタは何も言わずに淡々と皿を並べて手伝っている。
フクタの母親は心配ではあるものの、この件に関してはあまり突っ込まないようにしていた。たまに、本当にごくたまにだけ言って、すぐにやめた。
「ねぇ、パパ、今日早く帰ってくるかなぁ?」
フクタの母親はすぐに話題を変える。
ピンポーン! チャイムの音が聞こえる。
「あれっ? 本当に早く帰って来た。最近ずっと遅かったのに」
「ただいまー」
フクタの父親はダイニングに入って来たが、もう上着を脱いでいる。ソファの上にポンと投げ出すと、
「おっ! タイミングが良い、今日は先に飯にしよう」
と言って食卓に座った。
「パパ、今日は帰りが早かったわね。ちょっと待って、すぐに用意するから」
母親は急いで、食器棚からもう一組の皿を出している。
帰りが早い理由を知っているフクタは、父をジロっと睨むが何も言わない。
フクタの父親は苦笑いして頭をかいている。
二人のそんな様子にはまったく気づかず、食事の準備が出来ると三人は食べ始めた。
母がたわいのない話をして、父が適当に相槌をうち笑ったり、父がテレビを見ながら、しょーもないダジャレを披露したり、そんな風に夕食の時間が過ぎて行く。フクタは先に食べ終わり、席を立つと地下室に降りて行った。
父は酒が入り、すっかりご機嫌になっている。
「あぁ~、そう言えば、ママ、いつもフクタの友達の事で心配してるだろ。あれな~心配いらないようだよ。さっき夕方にさ、フクタより年上の男の子たちと一緒に歩いているの見たんだよ。ぜんぜん虐められてる様子もなかったし、むしろ……そうだな……ん、何て言うか……対等……そう! 対等な雰囲気だったな。フクタは体は小さいけど、精神的には大人だからな、あれくらい上の子じゃないと合わないのかもしれないよ。そーだ、たぶん、そーだよ。同い年くらいの子供じゃ物足らないのかもな」
母親は目を大きく見開いて、驚いた様子で話を聞いていたが、暫くすると目が座り、厳しい顔つきになり、
「で、パパ、それで、なんで、そんな時間に外をフラフラ歩いてたの?」
「えっ? あっ! しまったぁ! あ~俺、何やってんだ! あ、え、と」
フクタの父親はその後、有給を取って、選挙活動の手伝いをしていた事を洗いざらい白状することになった。
しばらく怒っていた母親も、食べ終わった皿の洗い物をする頃にはすっかり機嫌がなおっていて、鼻歌を歌いながら、手を動かしていた。
――へー! フクタに友達! 二人も!

翌朝、フクタが学校に行く前に食べながらテレビを見ていると、CMに切り替わった。
「あなたの周りは本当に安全ですか? その答えは私達だけが知っています。わたし達は有害菌糸を研究し撲滅運動を推進しています。さあ心を開いて真実をみつめましょう! ご連絡はこちら――有害菌糸撲滅研究所――まで」
そのCMを見ながら母親が、
「あっ! これこれ! パパが研修って言ってやつ……何? 有害菌って? 聞いても詳しい事は研究所に顔を出さないと家族でも教えちゃ駄目なんだって……そんなのって、おかしいわよねぇ」
フクタは黙ったまま急いで食べている。今日は、思いの外、記録に手間取り登校まであまり時間がなかった。
「あらっ! フクタ、もう出る時間! 遅刻しちゃうわよ」
フクタは味噌汁だけ全部飲んで席を立ち、学校へ向かった。

――

ウージとタキシはまた港に来ていた。フクタの家からは歩いて十五分ほどで行ける。昼間に来ても、近くに寂れて使われていない倉庫があるだけで、人気がないので二人は気兼ねなく外でのんびりしていた。
「ねぇ、ウージ君、昨日のフクタ君のパパさ……あれ、やっぱり研究所かなぁ?」
タキシは、我慢していた事を――ウージが否定してくれる事に期待して――やっとの思いで口にした。暫くウージは考え込んでいたが、やがて、
「間違いねぇだろ。ありゃ研究所だ。まだ日が浅そうだったな。でも、周りにいたヤツラは年季が入ってたな。おおよそ、動きに無駄がなかった」
タキシの期待を裏切って、ウージはあっさりとタキシの考えを認めた。
タキシは震えながら、
「や、やっぱりフクタ君に話した方が良いよね。う、うん、僕も散々、悩んだけど、話した方が良いよ。心の準備ってもんが」
タキシが全部言い終わらないうちにウージが、
「話してどうするんだよ。あのガキに何が出来る? パパ、変な組織やめて! ってか?」
タキシは黙ってしまった。自分にも覚えがあったのだ。
「そーだよね。”いいか? お前のためにお父さん、がんばってるんだぞ。ちゃんと活動すれば、これから起こる災難からお前とお母さんと守ってあげられんだ”とか言われて、キラキラした目で見つめられて、”心配しないでパパを信じろ! ”って頭撫でられるのがオチだよね……」
タキシは昔の自分を思い出していた。
その時、ウージも同じような事を思い出していた。
と、その時、ほとんど車が通らない道に砂煙をあげながら、近づいてくる黒塗りの車があった。
散々、砂ぼこりを舞い上げた後、その車は二人の近くにザザーっという音と共に止まった。
中から男が三人出てきた。運転手は中に乗ったままだ。
「こんなところにいたのか。さっ、君たち施設に戻りなさい。施設長も心配しておられるよ? 君たち、ちゃんとご飯食べているかい? 君たちのような食べ盛りな子供はちゃんと食べなきゃ駄目だよ。施設に行けば、何でも食べ放題じゃないか? どうして逃げたりするんだい。誰も君たちに意地悪なんてしないだろ? それとも誰かに虐められたのかい? それなら、ちゃんと先生に言いなさい。そんな悪い子達はちゃんと、対処してあげるから」
男がタキシに触れようとした瞬間、タキシが、
「ひえ~~~あぁーー」
と素っ頓狂な声を発して、走って逃げた。しかし逃げた方向は埠頭の方で逃げ場がない。
「おい! やめろ! お前らが俺達の食事に何か混ぜてた事はわかってんだよ。俺達はそれに気づいて、何日も前から、おかしなものを混ぜられる前のメシ食ってたから、今、こうして正気でいられるんだ! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
ウージは男たちを睨みながら反応を窺っている。
「さっ、お腹空いたろ。施設に戻るんだ。施設には美味しい食事やお菓子が待っているよ?」
男は、ウージが言った内容がまったく聞こえてない様子だった。
「やっぱりな。コイツら、自分達に都合の悪い事は聞こえない仕組みになってやがる」
「さっ、君は帰るよね。手荒な真似をするつもりはないんだ。大人しくしなさい」
と言いながらウージの肩に手を乗せた。
ウージはその男の手を払いのけながら、
「ふん! 言ってもわからねぇヤツは、こうだ!」
と、男の顔をブンと殴った。その時、ガツッとイヤな音がした。
「痛てててってーあああーーーー」
イヤな音の主はウージの方だった。
「し、しまった……コイツらの皮膚の硬さの事すっかり忘れてた……痛ってぇ……」
殴られた男は、まったくダメージを受けた様子はなく、
「君、暴力をふるっては駄目だよ。悪い子だね。さっ、ちゃんと施設に戻って、何が良いことで何が悪いことなのか、ちゃんと教えてもらおうね」
またウージの肩に手を置きそうになったが、ウージはタキシのところまで走って逃げて行った。
「こらこら、そっちに行ったら危ないよ、海に落ちちゃうでしょ。さっ、何も逃げる事はないだろ。おじさん達は君らを叩いたりしないよ」
と言ってどんどん近づいて来た。
ウージがタキシの近くまで走って来て、
「し、しまったぜ! 最近、あまりに呑気でメリケンサックを土蔵に置いてきちまったぞ、くっそー、よりによって丸腰の時に来るなんて、ついてねぇ~~、くそっ! 捕まるか、海に飛び込むかだ。お、お前もどっちかに覚悟を決めろー!」
「ウージ君、そ、その、メリケン何とかってこれの事?」
タキシはポケットからウージのメリケンサックを取り出した。
ウージは目をまん丸くしている。
「お前、いつの間に……」
「土蔵に置いてあったから、きっと重いから持ち歩かないのかなって、僕が持っててあげる事にしてたんだけど……取ったわけじゃないからね。ウージ君が何か言ったらすぐに渡すつもりで持ってたんだからね」
「んな事は、どーでも良い。タキシ! でかしたぞ! やっぱり、お前は最高だよ!」
と叫びながら、タキシの手からメリケンサックを取ってウージは自分の両手にハメた。
「おい! オッサン! それ以上、近づいてみろ! 今度はさっきのようにはいかねぇぞ!」
ウージはメリケンサックを嵌めた拳を見せて構えた。
「君たち、冗談はよして、戻って来なさい。暴力はいけないよ」
男がまたウージの肩に手をかけたその時、
「忠告はしたぜぇ!」
と言うや否や、ウージは強烈な右フックを男のコメカミに当てた。
……
……
……
男の顔から血は流れただろうか?
否……ポッキーーン! という乾いた音が聞こえたかと思うと、何と! 男の首が九十度の角度で折れたのだ!
折れた割れ目からシューシューと白煙のようなものが立ち上っている。
タキシはヒャーと言いながらガクガクと震えながら両手に顔を覆い、しゃがみ込んでしまった。
「どーだ! これでも近寄って来るか! 俺は本気だぞ! お前達もこうなりたいなら、こっちに来なぁ!」
ウージは精一杯の虚勢を張って大声で吠えた。
先頭の男の首があっけなくポキッと折れたのを見て、他の二人の男は明らかに動揺して足を止めた。
「わ、わかった。今日のところは帰る。これから君たちに近づくが、彼を回収するためだ。彼をこのまま、ここに置いておくわけにいかないって事は、君らにもわかるだろ?」
ウージがゆっくりと頷くと、男二人が、倒れた男の体を両脇から抱えて、足を引き摺りながら、乗ってきた黒塗りの車の中に乗せた。
車のドアがバタンとしまった後、ウィンドウが下がって、
「いいかい? お腹が空いたら、施設に戻るんだよ」
と言い残すと、また砂煙をあげて去って行った。
ウージはまだファイティングポーズを取っていたが、ほっとして両腕をダラーンと下げると、後を振り返り、
「おい! タキシ……大丈夫か?」
「う、うん……あのポキッ! 、シューーってやつ、何度見ても気持ち悪いよ。僕、きっとあの日の事、薬の影響で見た夢だと思おうとしてたんだけど……」
「ハハッ、今見た事を警察が信じてくれてたら、俺らは、こんな目にあってないんだよ。どんなに説明したところで、施設の生活に辛抱できなくて脱走して来たくらいにしか思ってくれないのは証明済みだからな……さっ、タキシ、いつまでも震えてるなよ、そろそろ帰ろうぜ」
やがて、タキシの震えも収まると、自分でズボンをパンパンと払って立ち上がった。
その様子を見て、安心したウージは土蔵に向かって歩き出した。

二人がフクタの家まで向かう途中、黙って歩いていたが、突然ウージが、
「なあタキシ、ところで何でアイツら俺達があの港にいたのわかったんだと思う? どう考えても普通、あんな場所、探さねぇだろ」
タキシは内心、自分でも心配していたことをウージが口にしてドキッとした。
「な、なんでだろうね……」
タキシは不安そうにウージを見る。
「つまりだな~俺が言いたいのは、お前がお気に入りのあのガキが脅かされて口を割ったんじゃねぇかってことだよ!」
ウージは思っていた事を口に出した。
「ま、まさかぁ……フクタ君に限って絶対、そんな事、ありえないよ。ウージ君のバカ! 僕達をずっと匿ってくれてるのに、そんなこと考えちゃ駄目だよ!」
タキシは一瞬、自分も同じ事を考えていたことを否定したくて、ウージの言葉を強く否定した。
「きっと、アイツ、学校の帰りに、あの黒塗りの車の連中に脅かされて、この場所をチクったんだよ。まっ、だとしても、俺は別に構わねぇけどな。元々、あのガキは俺達を匿う理由なんて、ねぇんだし、最初に追い出した時の神経の方がまともなんだよ」
ウージは別に怒っている様子もなく淡々と話している。でも自分の気持ちを納得させようと、いつもより饒舌になっているのがタキシにはわかった。
「そ、そうだよね。下手に僕達の事を庇って、怪我とかされたら、その方が僕は嫌だな」
タキシはウージのペースに合わせる事にした。裏切って当然、その方が安心と自分達の気持ちを必死にごまかそうとしていた。
「でも、アイツも親父があれじゃ、もうとっくに巻き込まれてるんだけどな……」
ウージは皮肉なもんだという感じで首を横にふった。
「そ、それだ、それだ。そのフクタ君のパパの話……どうしよう……ね」
また二人の間に沈黙が流れた。その事はかつて自分達が散々悩んだ事であり、そして、その解決については二人とも失敗していたのである。だから、出来る事ならフクタに無縁でいて欲しいと思っていたし、フクタも避けているようにも見えたが、結局、自分達のように少しずつ包囲網が狭まって来ているように感じた。
暗い気持ちを吹き飛ばすようにタキシが素っ頓狂な声をあげて、
「と、とにかく、僕、この事はフクタ君には言わない! 決めた! 絶対言わない」
ウージは黙って頷いた。

――

フクタが学校から帰って来た。
いつものように鞄を置いて、地下室に行こうと、廊下を歩いていて、リビングをチラッと見ると、母親が床に座ったままソファにうつ伏せになっているのが見えた。
フクタはギョッとしてリビングに入り、母親に近づいた。
母親はフクタの気配に気づき、
「あれっ? いつの間にか、眠っちゃってたみたい。そろそろ買い物に行かなくちゃね。フクタは元気?」
フクタがコクっと頷くと、
「そう、それは良かったわね。元気なのが一番よ。よっこらせっと」
とフクタの母親にしてはやけにババ臭い口調で立ち上がった。明らかに様子がおかしい。
母親は心配そうに見上げるフクタの視線に気づいて、慌てて、
「ご、ごめん、フクタは何も心配しなくて良いのよ。ごめんね、大丈夫! もう、ぜんっぜん大丈夫だから、気にしちゃ駄目よ。さっ買い物、買い物、今日のご飯は何じゃろな?」
母親は慌てて買い物に出て行った。
車が出て行く音が聞こえると、待ってました! とばかりにウージとタキシがリビングに上がって来た。
ウージは、いつものようにテレビをつけてザッピングを始め、タキシはオヤツを探し始めた。
フクタは、そんな彼らを見ながらたまに疑問に思う。彼らは、食事をいつもどうしているのだろう? たまにフクタの家からくすねているのは知っているが、タキシの食欲を考えると、とてもそんな量で足りるはずがなかった。
「ねぇ……フクタ君のママ、ここの所、ちょっと元気ないんじゃない?」
フクタがコクっと頷くと、
「やっぱりさ……、それってフクタ君のパパが、ここ数日さ……」
「おい、タキシぃ!」
テレビを見ていたウージがいきなり振り向きながら大声で怒鳴った。
タキシはビクンとして、
「う……ん……」
と言うと黙ってしまった。
それからフクタが何度もタキシの服の背中を引っ張って、ウージに聞こえないように教えてくれとせがんだが、タキシはとうとう沈黙を守り続けて土蔵に帰って行った。

夜になり、フクタと母親がテレビをつけたまま夕食を食べている。
フクタの母親は、二人で食事をする時、テレビをつけるのを嫌がり、大抵つけるのは父親の方だった。しかし心配事がある時に限って、黙ってテレビを見るのだった。
テレビでは、つまらないクイズ番組が放送されていた。お馴染みではあるが、わざとらしい笑顔以外に取り柄のなさそうな芸人がはしゃいでいた。そしてCMに入ると、突然、例の研究所のCMが流れた。
母親は、そのCMを見た途端、、急いでリモコンでテレビを消して、顔を伏せた。
何事かとフクタが席を立ち、座っている母親の足元に膝まずき、下から顔を見上げると、母親の目には涙がいっぱいたまっていた。
――泣いている――どうして?
「ご、ごめん、ママ、フクタに心配かけたくなくて黙ってたんだけど、もうムリ、ゴメン……ママ、駄目ね、ヒック……ヒック……」
一度泣き出したら、もう止まらない。泣きじゃくるという表現がぴったりの様子でしゃっくりまで始まった。
「ぱ、パパが……ヒック……ね、ヒック、もう一週間も、ヒック……そう、もう一週間も、ヒック、か、帰って来てないのよ! ワ~~~!」
母親が最後まで言い切ると、今度は子供のように泣きだした。
フクタは立ち上がり、母親の頭を撫で始めた。
そして、いよいよ、被害が自分の家にも来た事を確認して、急がねばと決意を新たにするのだった……
「ねぇ、フクター、パパ、きっと浮気よね~だよね~、もう最近、ちゃんとお化粧してなかったからかなー、最近、ダンス教室、サボリ気味でちょっと太ったからかなーうぇーん」
フクタはズッコケそうになり、足をプルプルさせつつも何とか堪えていた。
暫く、考え込んでいたフクタだったが、いきなり箪笥の引き出しの中をあさり始めた。
「何? フクタ? 何してるの?」
母親は不思議そうにフクタに聞く。
黙々と何かを探していたフクタはそれを見つけたらしく、引き出しを閉めると、それを母親に見せた。
「あ……名刺……パパの……会社の名刺……あっそうか! ママ、会社に電話するの忘れてた! そ、そっか、ちょ、ちょっと今かけてみるわね」
母親は名刺を見ながら父親の会社に電話をかけ始めた。
すぐにつながったようで、色々と遠回わしに聞いている。
「そう……ですか……出張……ですか。はい? いえいえ、何でもありません。いえ、こちらこそ、どうもお手数をおかけしまして、はい、では、失礼致します」
ガチャッと電話を切って、しばらくボーとしていたが、フクタを見ると、
「パパね、出張だって……何もそんな事、言ってなかったのに変ねぇ……出張の準備なんてしてなかったと思うけど……出張先は社外秘だから家族にも教えられないって。ちゃんと誓約書にサインしてるって。……と、とにかく、毎日出勤しているから、そんなに心配する事ないみたいだけど……って! 何の連絡もよこさないで一週間も帰って来なかったら心配するわよねぇ! でも、ま、昨日、給料日だったのにちゃんと振り込まれてたのよねぇ……う~ん、パパちゃんと会社行ってるんだ……じゃ、良いのかな? フクタ? パパ浮気じゃない?」
「そこかよ」フクタはボソッと言ったが、
「えっ? そうよね、パパは浮気してないって、そういう事で良いのよね。あ~びっくりした。ちゃんと会社行ってるのなら良いのかぁ……行ってなかったら、来てないって連絡来るものね。でも、パパもパパよねぇ~~暫く連絡出来なくなるなら、そう言っておいてくれれば、ママも心配しないのにぃ~もう~フクタぁ~ママ泣いて損しちゃったわよ~もぅ一生分泣いちゃったぁわよ。あぁ~恥ずかし、ヘヘっママちょっと格好悪かったかなぁ?」
母親はもうケロってして、食事を続けている。
「まっ、そろそろ帰って来るって言うし、何か急用だったんだってぇ。だからフクタも心配しなくて良いのよ。ありがとね。もっと早く会社に連絡するの気づくべきだったわ~。携帯ってのも便利なようで不便ね。つながらないともう連絡つかないような気分になっちゃうもんね」
フクタは母親の反応には安心したが、いよいよ父親の会社もグルなのだと思いゾッとしていた。

――

研究所ビル内の一室に施設長の個室がある。
「施設長! あの二人を連れ戻しに行った研究員の一人がまた殺られました。どう致ししましょうか?」
施設長の雰囲気は以前とはまるで違っていた。とても穏やかな表情で報告を聞きながら、笑みを浮かべつつ、
「して、彼らの居場所は突き止めておるんだったな。変わってはいないのか?」
「は! 相変わらず、最近、研究員になった者の家の土蔵に潜伏しています」
「ふむ、しかし、何故か、その土蔵に研究員は近づけないと……その事は一応、所長にも報告しておいたが、誠に不可解だな」
「は! 小学校で教員をしている研究員から二人の居場所の報告を受けまして、その夜、すぐに確保に向かわせたのですが……何故か家の周りに近づけなかった……という報告を受けております。何か結界のようなものが張られているのでしょうか?」
「ハハハ、結界か……それはいい。しかし今度の港の一件で、土蔵の外なら接触できる事がわかったではないか。で……その彼らに殺られた苗床はちゃんと回収できたのか? うむ、それならば良い。それさえ回収したのなら問題あるまい。暫くあの二人は放っておいて良い。いつまでもそこにいる事も出来まいて。いずれ戻って来る事になる。それまで、そんなに急ぐ事もあるまい」
「ははー、さすが施設長! 寛大なご処置。さすが恩恵を与えられた方は違いますな」
施設長は満足気な表情で、
「励むが良い。さすればいずれ、お主らも恩恵を与えられる事もあろう」

――

ある早朝、ウージは研究所ビルの近くに来ていた。さすがに出勤前の時間帯は人通りも少ない。そのビルは都心のビジネス街の中心に建っていた。
ウージはビルの裏門に回ってゴミ回収箱の後に身を潜める。
――チャンスは来るだろうか?
いずれにせよ三十分ほど待ってもチャンスが来なければ、タキシが待つ土蔵に引き返すつもりでいた。
もう帰ろうと思った……その時!
裏門の鉄扉がゆっくりと開いた。中から研究員の制服を来た男がゴミ袋を持ってゴミ回収箱に近づいて来た。
ウージは回収箱の後に身を潜めながら、自分の手が汗ばんでいるのに気づき、一度メリケンサックをはずしてズボンで手を拭うと、再びメリケンサックをはめ直して強く握りしめる。
研究員がゴミを入れ終わって後を向いた瞬間、ウージは飛び出して、研究員のコメカミをガツンと殴った。
「パキーン!」
乾いた音と共にシュー、シューーと白煙らしきものが立ち上ったのを見て、ウージはホッとした。
血でも噴き出しそうものなら、大急ぎで逃げなければならない。
ウージは首が折れた研究員の両脇をつかみ、鉄扉に向かって全力で引き摺り始めた。意外にも研究員の体は見た目以上に軽かった。もっとモタつくだろうという予想に反して、すんなりと鉄扉まで引きずる事に成功した。
ビルの中まで引き摺って鉄扉を閉めると、近くに保管室と書かれている扉があった。開けようとしたが鍵がかかっている。
トイレがあったので、ウージはそこまで引き摺った。引き摺っている間もシュー、シューと音を立てて白煙を上げていて気持ちが悪い。
ウージは研究員から制服を脱がせて着替えた。
――良かった。服のサイズはピッタリだ。一回くらいまくれば何とかなる。
制服のズボンに異物感を感じて取り出してみると鍵が二本出てきた。
「裏口」と書かれた鍵と「保管室」と書かれた鍵だ。
この白煙をあげている男をこのままトイレに放置すると、バレるのが早くなりそうだ。出来るだけ時間を稼ぎしたい。
ウージはもう一度、男を保管室まで引き摺り、鍵を開けて中に入り、部屋の隅まで引き摺って行った。保管室の中には子供の背丈くらいの枝のない原木がところ狭しと立てかけられていた。ちゃんと専用に作られたらしい立てかけるための台がある。薪に使うのなら積み上がっている方が自然だと思うが、何が違うのだろう? 木の皮はまだ剥がされていない。触ってみると少し湿っていた。
部屋の中は空調が効いていて、一定の温度に保たれていた。
ウージは男を部屋の奥まで引き摺って行き、入り口からはすぐに見えない位置に置き、保管室の鍵をかけた。
――絶対親父を見つけ出してやる。フクタの親父さんも、ついでにな! そっちは、あ、あくまでもついでだ。
ウージはビルの廊下を小走りにかけて行った。

――

フクタが目覚め、いつもの記録をつけようと階段を降りて、地下室に行こうとした時に何気なくリビングの方を見ると、リビングの窓越しに庭でタキシが両手を大きく振っているのが見えた。
――えっ? 出てきちゃ駄目だよ!
フクタは母親がまだ起きてきていないのに胸を撫で下ろして、リビングを通って庭に出た。
「ねぇ、あ、あの……フクタ君、ウージ君、そっちに行ってないよね」
タキシは酷く焦っているようだ。片手にわら半紙の切れ端を持っている。
「あ~! それ、お爺ちゃんの研究レポートじゃない?」
フクタは慌ててタキシからわら半紙の切れ端を奪い取った。
見ると、祖父の研究レポートの一部である事は確かだっったが、背表紙の部分でホッとした。裏返すと書き殴った文字で、
「ちょっと実家の様子を見て来る。遅くても明日には戻る。ウージ」
とだけ書かれていた。タキシが動揺している理由がわかった。
フクタはとりあえず、ここではまずいから土蔵に戻ろう、と言って土蔵の中に入った。
「あのさ、こんなのおかしいんだよ。ウージ君が実家の様子なんて見に行くわけがないんだ」
「書いたのは本人?」
「うん、それは間違いない。これはウージ君の字だよ。でもさ、前に研究所を逃げ出して来た時に、どこに逃げようって話になってさ、僕がウージ君の実家は? って聞いたら、お前はバカか? そんなのアイツらが最初に張っているに決まってるだろ! って怒られた事があるんだ」
「その時とは状況が変わったとか……」
「だったら、何で僕のこと誘わないのさ! こんなに朝早くから、おかしいよ。いつだって朝は僕が起こしているんだから!」
――きっと危険な場所に行ったんだ!
ここまで来てようやくフクタは、どうしてこんなにタキシが取り乱しているのか理解した。
何らかの事情が変わってウージの実家が安全だと判断したのなら、当然、こんなに大騒ぎするであろうタキシを置いて行くわけがない。
恐らく、タキシを置いて行かないと危険な場所とは……
――研究所!
そうだ。他は考えられない。タキシもそう考えているのだ。
――でも、どうして?
フクタが不思議に思っていると、
「ぼ、僕、ウージ君がいないと駄目なんだ。ウージ君は僕にとってかけがえのない家族なんだ。ウージ君に何かあったら、僕おしまいだよ……もう……何で、僕を置いていっちゃったんだよ。そりゃあ、誘われたら、絶対、怖いって断ったと思うけど……で、でも、まだ、それは確実じゃないし、僕らは捕まったら、どうなるかわからないんだから、仕方ないよ。確かにフクタ君は僕らを匿ってくれてる、とても大事な友達だけど、だからって、フクタ君のパパのために、こんな危ない事は出来ないよ。それなのに……もう! ウージ君は! いつだって優し過ぎるんだよ! 僕が虐められていた時だって……」
「ちょっと待って! 落ち着いてよ。何? パパが何だって?」
不思議そうに見上げたフクタを見て、タキシはハッ! しまった! 言っちゃった! と誰が見てもわかりやすい表情をした。
「え! えっと……それは、つまり、その……決まったわけじゃないんだ。そう確実ってわけじゃないんだ。うん」
フクタは、それで? という表情で黙って見上げたまま、コクっと頷いて話の続きを促した。
「つ、つまりぃ~。あぁーーウージ君、ゴメン! これ、言わないと事の深刻さが伝わらないよーー」
タキシは暫く頭を抱えて騒いでいたが、遂に肩を落とすと、ウージの目線より低くなるようにしゃがみ込んでから、落ち着いた様子で話し始めた。
「つまりね、フクタ君のパパは研究所の研究員になった可能性があるんだ。ここのところ一週間ほど帰って来ていないだろ? それにあの道で応援してた政党ね、研究所の政党なんだよ」
フクタはそう……とだけ言うと静かに考え込み始めた。
タキシは、もっとフクタが大騒ぎしたり、泣き出すと思っていたので、拍子抜けした表情でフクタの様子をじっと見ている。泣き出したらどうしたら良いかわからなかったので、フクタの反応に助かったとも思ったが、もしかしたらその恐れている反応がこれから起こるのかもしれないと思うと、時間が経過するにつれて息が詰まる思いがして来た。
そして遂に耐えられなくなって、
「だ、だから、きっとフクタ君のパパを助けに行ったんだと思うんだよ」
「どうして?」
フクタも一瞬、その可能性も考えたが、どうしてもしっくり来なかった。
「だ、だからさぁ、フクタ君はウージ君のこと何にも知らないんだよ。ウージ君はああ見えて物凄く優しいんだよ。もう優しすぎるくらいに優しいんだよ」
フクタはそれだけで、ウージがこんな危険な真似をするとはどうしても思えなかった。
タキシは尚も押し黙っているフクタを見て、
「フクタ君はさぁ、今、僕からフクタ君のパパが危険だと聞いてもさぁ、助けに行きたいと思わないの? それをウージ君が君の代わりに助けに行ってくれてるんだよ?」
なおも押し黙って考えているフクタを見てタキシは段々イライラして来た。
「き、君はパパもママも元気だから、そんなに呑気でいられるんだよ。僕のパパは二年前に病気で死んじゃったんだ。それでママが一人で僕の事を育てなきゃいけなくなって、そ、その僕……大飯食らいだし、大変だったんだよ、それで研究員になったら僕が好きなだけ食べられると考えたんだと思うんだ。でも一年前にママも死んじゃったけどね……それで僕は研究所の施設にそのまま残ってたんだよ。ウージ君とは、その施設で知り合ったんだ。ウージ君はママがいないんだ。それでウージ君のパパが研究所の仕事で忙しいから、たまに預けられていたんだけど……」
「それだ!」
フクタは目を大きく見開いた。
タキシは、せっかく自分の辛い身の上話をして、自分にとってウージがどれだけ大切かを力説しているつもりだったのに、急にフクタが難問でも解いたような素っ頓狂な声をあげたので、
「何が、それなのさ! フクタ君、ちゃんと人の話は、さ、最後まで聞かなきゃいけないと思うな」
「あっ! ………ゴメンなさい……」
タキシはあっさり謝られて、居心地が悪くなりムズムズしだした。
「えっと……わ、わかれば良いんだ。別に僕も、お涙頂戴ってつもりで話たわけじゃなくて、ホントの事を言うと、ついこの間、会ったばかりなのにフクタ君のためにウージ君が危ない事をしようとしているのに、そのヤキモチっていうかそういうの感じたんだと思うよ。こ、こちらこそ、イライラしてゴメン。余計な事いっぱい言っちゃったし……そ、そうだ! さっき、それだ! って言ったのどういう意味?」
タキシは必死に話をフクタに戻そうとした。
「うん、きっとウージさんはウージさんのおじさんが助けに来てくれるのをずっと待ってたんじゃないかなぁ? 二人が逃げたのを知ったら、もしかしたら研究所をやめてくれると思ってたんじゃないかな? でも、いつまで経っても迎えに来てくれないから……」
「自分から迎えに行った! ってこと?」
タキシも急に謎が解けた思いがして目の前が明るくなった。タキシもこのまま永遠に逃亡生活をして何の意味があるのか? と疑問に思った事はあった。しかし、その度に、きっとウージには何か考えがあるのだ、と信じて考えないようにしていたのだ。また、そういうウージに不信感と取られそうな発言は極力控えていた。
しかしたまに、ウージが独り言で、
「っか……しぃーな……っせぇなぁ……」
と言ったのを耳にした事あった。その時、漠然と、何か機が熟すのを待っているのだろうか、と思った事があったのを思い出していた。
「そ、そうかも! ウージ君、ウージ君のパパがあんまり遅いから、痺れを切らして会いに行っちゃったんだ。そーか、そーか! お父さんと一緒なら、きっと大丈夫だよ。ウージ君のお父さんって、メッチャクチャ強いんだって、前に自慢してたよ。何でも空手が黒帯なんだってぇ! そーか、それなら安心だ。絶対、帰って来るね。ハハ」
その時、フクタの家のリビングから、フクタの母が呼んでいる声が聞こえて来た。
「あっ! フクタ君、もう学校に行く時間だね。ゴメン、大騒ぎして、僕はウージ君を信じて待つよ。それで、実家の様子はどうだった? って白々しく聞いてやるんだ。ハハ」
フクタは安心した様子で土蔵を出て行った。

――

ウージは透明ガラスの向こうに自分の父親が寝ているのを見て呆然としていた。
プレートには自分の父親の名前がはっきりと書かれていた。勘違いではない。プレートの上部にはAAAと書かれていた。
このビルに入って、エレベータの案内板を見ていて、何も書かれていない階が怪しいと狙いを絞って降りると、そこはまるで病院の雰囲気だった。手前から順にC、B、Aと続き、AAAは一番奥だった。どう考えても、奥に行くほど容態が悪化して行く様子だった。
ウージは周りの様子を確認してからそのガラス部屋に侵入した。
父親は全身に管が刺され、何かのデータを取られているようで、心拍数や脳波を測っているらしいモニターがピコンピコンと不気味な音を立てている。
ウージの父親の体はぞっとするほど骨と皮だけになっていて、ウージの記憶にある筋肉隆々のたくましい父親の姿はどこにもなかった。
――親父ぃ……
ウージは唇を噛み締め、もう涙があふれて止まらない。
――やつら……何て酷い……
きっと父親も何かの実験台にされているのに違いない。この様子だと、もう長くはないだろう。なんて事だ。親父だけが頼みの綱だったのに……
きっと辛抱して待っていれば、さすがに、この頑固親父も異変に気づいて自分達を探しに来てくれる。そこで、自分が知った事をちゃんと親父に話せば、きっとわかってくれるに違いない。
このあまりに貧弱な考えこそが、ウージが研究所に対向する戦略の全てだった。
もし襲って来たら? フン! 親父用のメリケンサックも持って来た。最も俺の親父にこんなオモチャなんていらないだろうけどな。逆に手渡したらメリケンサックよりも硬い鉄拳で殴られるかもわからない。
ウージは父親のゴツゴツした、ついこの間まで何度殴られたかわからない拳を両手で優しく包み、声を殺して泣いた。
やがて、二人の男達が、なにやら談笑しながら近づいて来るのに気づいた。
ウージは慌てて、ガラス窓の下の死角になるであろう場所に背中をつけて隠れた。
二人の声がさらに近づいて来る。どうやら研究員のようだ。このガラス部屋に入って来るだろうか? 入って来られたらアウトだ。入り口付近で入った来たと同時に外に出よう。ウージは背中をガラスの下の壁にくっつけながら、入口付近に移動した。
「どうですかねぇ……AAA患者は?」
「う~ん、あと一ヶ月くらいは、持つと思ってたけど、明日あたり危ないかもね。もうちょっとデータが取れそうだと思ってたんだけど、意外と体力なかったね」
「はは、武道家も体の中までは鍛えられないってホントだな」
――くっそぅ! 親父を侮辱するな! 親父の体を侮辱するなぁ~
「ああ、でも子供が逃げたのを聞いてから悪化が早くなったって聞いてるよ」
「ハハ、心配する事ないのにな? あの子供たちって施設の子だろ? だったらもう菌糸が埋め込まれているだろ? 時間の問題だよ。まぁ、子供の場合、進行が遅いからあと三ヶ月くらいか? 長くても四ヶ月を越えるって事はないだろ」
――えっ? 俺達のこと、こいつら話てるのか?
「にしても、逃げられた事で、彼らのデータは取れなくなったな。でも、今、捕まっても、まだ実験するには早いから、二ヶ月後くらいに捕まえるのが、一番メシ代もかからなくてベストなんじゃないか?」
「おっと、俺達の昼飯の時間だよ。どうだ? 今日は外に行くか?」
「いいね。牛丼でも」
「たまにの外メシで牛丼かよ!」
二人の声が遠ざかって行くのがわかったが、ウージはホッとするのを忘れていた。
ウージは自分とタキシの命がそんなに長くない事を知って呆然としていた。
――まさか……もう手遅れだったとは……
ウージは自分達があの施設の食事から逃げ出した事で、もう安心だと思っていた。
しかし、今の研究員の話では、施設に入れられた時点で菌糸を埋め込まれ、その後の食事はその菌に対する影響をいろいろな薬で試しているという事のようだ。
何て事だ。チックショー! こんな事、タキシにはとても言えない。そうでなくてもあの臆病者のことだ。恐怖で頭がどうにかなっちまうに違いない。いや、ウージ自身、自分が壊れかけて行くの感じていた。どうやっても逃げられないという事を知ってしまった。いっその事、このまま捕まってしまおうか? どうせ死ぬなら実験動物になって残りの人生、美味しいものを食べて生きるのも悪くない。フクタには何と言おう。実のところ、フクタの父親を連れて帰れば喜ぶ顔が見られるんじゃないかと甘い事を考えていた。普段ついついイライラしてあたってしまう罪滅ぼしが出来るのではないかと。でも、もう自分達が死ぬとわかった今、そんな事はどうでもよくなっている自分が不甲斐なくもあった。
いや、フクタの父親のことはあくまでもおまけだったが、逃亡するのなら一人より二人だ。頼りになるかどうかはわからないが、探してみよう。
ウージがふと父が寝ているベッドの横に小さな鉄アレイが置かれているのに気づいた。ウージの父はこんな状態になっても、鍛えようとしていたのだろうか……ウージはさっと、その鉄アレイを握ると、部屋を後にした。
ここに来るまでにフクタの父親の姿はなかったので、最上階に上ってみる事にした。
階段を上がり最上階に着くと、奥の方で何やら不思議な音が響いていた。何か儀式のようなものが行われているようだった。
何やら「恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ!」と言っているように聞こえる。
ゆっくりと近づいて行くと、不意に背中に何か硬い物を突きつけられた。低い声で、
「動くな!」
と耳元で言われた。
――ぴ、ピストル?
ウージが観念して両手を上げると、
「こっちへ来なさい!」と、服を引っ張られた。
連れて行かれた場所は非常階段だった。
「いいかい? 余計な事は考えないで、このままこの階段を降りて逃げるんだ。君には大切しなきゃいけない仲間がいるだろ? さ! 急いで! こちらを振り返らないで! 逃げるなら儀式をやっている今だよ。今なら人が一番少ない」
ドン! と背中を押されると同時に、非常階段の鉄扉が閉められた。
ウージは最後の気持ちもへし折られてしまったのを感じた。何にせよ、今、死ぬのはゴメンだ。とにかく逃げよう、そういう気持ちになった。
一階まで駆け下りると、保管室の横に出た。保管室に隠した研究員は、まだ発見されていないらしい。ウージは保管室の鍵を開け、自分の着替えに着替えた。
何気なくさっきの死体はどうなっているだろうと見に行ってみると、下着類だけ残されていて死体がなくなっていた。
どうして下着類だけが残されている?
ならば、もう死体が発見されて裸にされて?
……それならとっくに大騒ぎになっていてもおかしくなにのに?
ウージはさっぱりわけがわからなくなったが、その湿った原木が並べられている不気味な部屋を後にして、裏門から逃げる事に成功したのだった。

――

フクタが学校から帰って来て、いつものように地下室に入り、記録を取り始めた。ウージは無事に父親に会えただろうか?
タキシの心配性が昂じて庭をうろついて母親に見つかっていないだろうか?
予想はしていた事だったが、二人とも帰るべき家がないことを朝、直接、タキシから聞いてショックも受けていた。
本当にとんでもない事が起きているのだ。
――ぜんぶ、ぜんぶ、元はと言えば……とても……とても償いきれない……
フクタは堪え切れなくなり、涙がどっと溢れて来た。
――合わせる顔がない……
涙が止まらなくなり、ヒックヒックと肩の震えが止まらなくなった。
フクタの日課の一部が終わる頃、母親が車にエンジンをかける音が響いて来た。
――もう買い物の時間か……
フクタは一通りの記録を済ませていたが、気が重く、暫く階段を登れずにいた。
その時、ギッギッと階段を降りて来る者がいた。タキシだった。
フクタの様子を見て、急に、
「ワー!」
と大声をあげた。
「ヘヘッ、ゴメン、びっくりしたぁ~? シャクリしてたから止まるかと思ってさ。安心して。さっきウージ君が帰って来たよ。ま、なんか様子が変なんだけどさ。その辺は気にしないであげてよ。まだ記録、終わってないの?」
フクタは慌ててタキシに背中を向けて涙を拭いた。
「う、うん、もうしばらくしたら行くよ」
フクタは、地下室が暗くて良かったと思った。たぶん、気付かれなかっただろう。タキシはああ見えて、たまに鋭いところがあるので気をつけなければ……
暫くして落ち着いてから、リビングに入ると、果たして……いつものように二人ともくつろいでいた。ウージはいつものようにテレビをつけザッピング中、タキシは今朝のことなど何もなかったようにオヤツを漁っていた。
「あっ! フクタ君、毎度毎度、悪いけどフクタ君のオヤツもらってるね」
フクタはコクリと頷いた後、顔をタキシに向けたまま目だけウージを気にするように動かした。
タキシは慌てて自分の口元に人差し指を立てて、シーという合図をした。どうやら何事もなかったことにするつもりらしい……
しかし暫くしてから、タキシが唐突に、
「あっ! そう言えば、今日、ウージ君、さっきまで実家の様子を見に行ってたんだよね? ついさっき帰って来たばっかりなんだよ」
とフクタに話かけた。タキシはあくまでもその路線で行くつもりらしい。
ウージは、
「あ? あぁ……うん」
と答えたが、とにかく元気がない。元々、あまり愛想の良い方ではないが、今日のはそれとはちょっと違う。本当に腑抜けになってしまったような、そんな聞いているのかいないのわからない感じの生返事が返って来た。
フクタの様子に気づいたタキシは、肩をすくめて見せた。さっきからこの調子なのさ、と言わんばかりの表情だ。
「あ! そう言えばウージ君、実家にお父さん帰って来てなかった?」
タキシがお父さんと発した瞬間、ウージの小さな後ろ姿がピクンと反応したような気がした。が……
「いなかった」
とだけ答えて、チャンネルを変えている。
タキシはまた肩をすくめた。
突然ウージはテレビを消すと、立ち上がり、
「俺、ちょっと横になるわ」
と言い残して、リビングを出て土蔵の中に消えて行った。
タキシはウージの後ろ姿を見送り、ウージの姿が完全に消えたのを確認すると堰を切ったように、
「ねぇ? ウージ君の様子おかしいよねぇ、帰って来てからずっとあの調子なんだ。お父さんに会えなかったのかなぁ? やっぱりフクタ君のパパにも会えなかったって事だよねぇ? それにしても気になるのが、帰って来てから、僕の顔をまともにみようとしないんだよ。あれは、隠し事が増えてる顔だよ……もぅ僕、心配で心配で……」
フクタは、何事か意を決したように、口を開きかけたが、
「フクタ君も、僕には隠し事しないでよ。あれっ? フクタ君、目が赤いね。眠いの? あまり目をこすっちゃだめだよ?」
フクタは力なく笑いながら、うん、と頷いた。
とにかく二人はこの件に関してこれ以上ウージを詮索しない事に決めた。

――

ウージとタキシは、土蔵の二階のひと部屋で生活している。その部屋には格子窓がついていて、フクタの家のリビングの様子や玄関の辺りが覗けた。
タキシは暇な時は格子窓を覗いている。フクタの家のリビングの様子に特別に興味があるわけではないが、フクタの母親が買い物に出かけた時にすぐに気付けるからだった。
ウージは、そんな時、決まって寝転んで土蔵の天井のしみを見て考えごとをしていた。
タキシにはウージが何を考えているのか、さっぱりわからなかったが、ウージが実家の様子を見てきたと言って、恐らく研究所に行ったであろう日から明らかに様子がおかしかった。タキシやフクタの顔をまともに見ようとしないのだ。仮にそれを本人に問いただしたところで、そんな事はねぇ! と突っぱねるだけだろうと、何も聞かなかったが、内心、心配でたまらなかった。
タキシは、ふと、部屋の片隅に小さな黒い物体が転がっているのを見つけた。
――こんなもの……元からあっただろうか?
タキシは、のっそりと立ち上がり、それに近づいてみると、その小さく黒い物体は鉄アレイだった。
持ち上げてみると意外に軽い。最近、運動不足でもあるので、軽く上げ下げしてみた。やらないよりはましだろう。
ウージはタキシの動きに気づいた。一瞬に何か言おうと口を開きかけたが、何も言わず、また天井を見つめた。
と、その時、タキシは持っていた鉄アレイのビニールテープが巻かれている部分に違和感がした。格子窓に近づいて光を当てて、よく見ると、
「あれっ? なんだろ? 何かビニールテープの間に紙が挟まってる」
タキシは巻かれているビニールテープを剥がして、その紙片を取り出した。いつの間にかに、それまで寝転がっていたウージが上体を起こして、タキシの様子を見ていた。
タキシは目を凝らしながら、その紙片に光を当てて、
「何か字が書いてある……え……と……”ウージへ”だって……」
と言ってウージの顔を見た。
ウージは、バッと立ち上がると、タキシからその紙片を奪った。
「そ、その鉄アレイ……じ、実家に行った時に持ってきたんだ。だ、だから俺のだ……」
ウージはタキシから目を逸らした。
「そ、そうだったんだ。ゴメン。僕、元からそこにあったのかな? って勘違いしちゃって……」
タキシは気まずい気分になった。恐らく、あの紙片は、ウージの父親からウージに宛てた手紙だろう。ウージは既に読んだのだろうか?
「ちょ、ちょっと俺、トイレに行って来る……」
「そ、そう……」
「で、でっけぇのだから、暫く来んなよ」
「あ、うん、わかった……」
ウージは土蔵の階段を降りて行った。

――

フクタは学校の帰り道で、もう少しで家に着くところだったが、ヒラヒラと舞う蝶を見つけてしまった。
フクタは蝶を追って行く。フクタの母親が見ていたとしたら、慌てて、フクタを呼び、家はこっちよ! と叫んでいただろう。
蝶はヒラヒラと舞いながら、フクタの家の裏の公園に飛んで行った。フクタは蝶につられて、とうとう公園までやって来てしまっていた。
フクタは捕まえたいわけではない。ただよく見たいのだ。しかし、蝶はヒラヒラと舞うばかりで、一向に止まる気配がなく、公園の公衆トイレまでやって来た。
と、その時、公衆トイレの中から、何がびっくりするような音が聞こえて、フクタは怯んだ。
その音は……大きな絞りだすような……泣き声だった。
声に聞き覚えがあるような気がする。
フクタはその聞き覚えのある声の主に気づいて、膝がカタカタと震えた。
――ウージさんだ!
――ウージさんが……泣いている?
フクタは自分の耳を疑ったが、その公衆トイレは普段からウージとタキシが使用している場所だった。土蔵にはトイレがないので、二人はフクタの家の裏の公園にある、この公衆トイレを使っていたのだ。
やっぱり、何かあったのだ。研究所で父に会えなかったのだろうか? 理由はわからない。でも、強情な……強情過ぎるウージを泣かせるだけの何かがあった事は確かだった。
フクタは、蝶を呑気に追っていた淡い気分が、そのまま自己嫌悪に変わって行くのを感じた。
急がなければならない……急がなければならないのに……
フクタは急いで、その場を離れて、家に帰り、いつものように地下室に降りて、シャーレの記録を取り始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
フクタはウージに申し訳ない気持が溢れて来て、何度もハンカチで拭わなければ、記録を取る事が出来なかった。

――

ウージは、ひとしきり泣いた後、トイレの鏡を覗き込んで、目が真っ赤に張れているのを見て、恥ずかしくなっていた。今、誰かに見られると、泣いていたのがバレそうだ。でも土蔵の中なら薄暗いからタキシも気づかないだろう。
ウージは土蔵に戻り、二階に上がるとタキシが相変わらず、格子窓から外を眺めていた。タキシはウージに気づいたようだが、何も言わずを外を見続けている。
ウージは外からの光が当たらない場所を探し、フクタの祖父の研究レポートだという、わら半紙の束が収められている棚の前で、意味もなく、その束を取り出してパラパラとめくっていた。
「あっ! フクタ君のママが買い物に行ったよ」
タキシが立ち上がり、土蔵の階段を降りようとした時、ウージが、パラパラとめくりながら、
「あっ、今日は、俺、パスするわ。ちょっと、ここにいるわ」
ウージの言葉にタキシは不服そうだったが、わかった、と言い、フクタがそのわら半紙には触らないでって言ってたよ、っと言い残して、降りて行った。
ウージは、なおもバツが悪く、わら半紙をパラパラしていたが、やがて、封筒がハラっと足元の落ちたのに気づいた。
――何だろう?
と思って封筒を拾うと、そこには”フクタへ”と書かれていた。
今日は、よくよく手紙に縁があるな、と苦笑いしながら、封筒から手紙を出して、格子窓に近くで読んでみた。特に何かを考えての行動でもなく、人の生活を覗き見たいという気分もなく、単純に、見つけた文字の羅列を暇つぶしに追おうとしただけだった。
しかし、やがて、手紙の内容を読んでいるうちに、ウージは何度もゾッする気分を味わった。
どうやらあの有害菌糸を最初に発見したのはフクタの祖父らしい。そして、その祖父の最後の研究はその有害菌糸を滅ぼす天敵菌糸を開発する事だった。しかし、彼はそれを諦めて、何と、その意思を、あの小さなフクタに託したいという内容の手紙だったのだ。
フクタはこの手紙の存在を知っているのだろうか?
気づいていないから、この中に挟まっていたのだろうか?
それとも、地下室に置いてある方が、両親に見つかると思って、この中に隠しているのだろか?
いずれにせよ、とんでもない重荷を背負わされている事は確かだった。それまでウージはフクタが地下室で何をやっているの興味がなかったが、急に確かめてみたいという気持が忽然と湧いて来た。

――

翌日の昼頃、タキシが、
「ウージ君! フクタ君のママが出かけて行ったよ!」
と言って来た。
「よし!」
と言ってウージは階段を駆け降りて行った。
ウージが事前に、明日、フクタが学校に行っている間に地下室に忍び込んでみたいから、見張りを頼むという話をしておいたのだ。最初は、嫌がっていたタキシだったが、フクタが心配なんだと言うと、さっきはフクタも地下室から上がって来なかったから、自分も心配だと言って納得したのだった。
ウージが地下室の階段をギシッギシッと降りて行く。土蔵に篭ってから、この地下室に降りたのは初めてだった。
改めて地下室を見ると、棚の中にシャーレがずらっと並んでいる。これを一つ一つ観察して、記録をつけているのだろうか?
棚の側にノートが置かれていた。 それを手に取り、パラパラとめくると、細かい字がずらっと並んでいて、几帳面な性格を伺わせた。
地下室にいると、タキシからの合図がわからないとまずいと思い、リビングで読む事にした。
そのノートは、どうやら日記も兼ねているようだ。そして、パラパラと読みながら、ウージはだんだんと震えが止まらなくなって来た。
そこにはフクタの日々の苦悩が綴られていた。
フクタはウージ達が有害菌糸に感染していて、近いうちに死に至る事を知っていたのだ。
彼らに謝りたいが、それは、すなわち全てを伝えなければならないといった事が延々と書かれていた。
フクタとフクタの祖父の過ちのせいで、ウージ達の親を死に至しめたと苦しんでいたのだ。そして、未だに対応策ができない事への苛立ちが書かれていた。
普段は、涼しい顔をしている癖に……あのガキ……
ウージは地下室に降りて、元の場所にノートを置いた。
そして机の上にハンカチを見つけ、何気なく触ると、ぐっしょりと湿っていた。
その瞬間、堪えていた涙で目がかすみ、思わず泣きだしそうになったが、
――俺は負けねぇ、こんな小さなガキが耐えてるんだ。俺は負けねぇ……お前を信じてるぜぇ……
ウージはさっと涙を拭いて、地下室の階段をギシッギシッと登って行った。

――

その後、ウージとタキシはいつものように、寂れた港で海とも船ともつかずボーと見ていた。
ウージは地下室で見たことをタキシに話せずにいる。タキシも聞こうとはせず、ただウージが話し始めるのを待っていた。
その時、また黒塗りの車が砂煙をあげてやって来て二人の近くに止まった。
「けっ! 性懲りも無く、ま~た来やがったか!」
ウージはポケットからメリケンサックを取り出した。
タキシはいつでも走れるぞ! と言わんばかりに逃げる準備をしている。
黒塗りの車の中から中年の女が出て来た。
ウージには見覚えのある顔だ。子供の頃、よくウージの家に遊びに来て、ウージの母と談笑していた母の友人だった女だ。しかしこの女が母を研究所に勧誘したのが発端とも言える。
「ウージ君! 久しぶり! 元気にしてる? ちゃんと食べるもの食べてるかい?」
「おばさん! 何の用だ? 連れ戻そうたってなぁ。そうなれば、おばさんだって容赦しねぇぜ!」
「まぁ! ウージ君、おばちゃん怖いよ。連れ戻しに来たわけじゃないよ……その……とっても、言いにくい事を伝えに来たんだよ……」
と、言ったきり、下を向いてしまった。そして、たまにチラチラとウージの様子を見ている。
逃げ出す準備をしていたタキシは戻って来て、その知らない中年の女が何か凶報をもたらしにやって来たのだと感づいて、ウージを支えるためにウージの背後に近づいた。
「その……ウージ君、気を確かにね! あんたのお父さんが昨日、亡くなったのよぅ!」
その中年の女は一気にそう言った。
「な! ……そ、そうか……お、親父が……死んだ……のか……」
ウージはもっと、驚いてもおかしくなかったが、どう見ても、ついに来るべきものが来たかという反応だった。
「で?」
ウージは顎を突き出して中年の女を見据える。
「で? ってアンタ、ずいぶん冷たいねぇ……明日、お父さんのお葬式だよ。場所はここだから、お葬式くらい顔を出すんだよ? いいね? わかったね。じゃ、葬儀場のハガキ置いて行くからね、ほらっ、ちょっと……ぶたないでおくれよ?」
と言いながらウージに近づき、葬儀場の場所が書かれたハガキを手渡すと、小走りに車に戻り、中に乗り込んでドアを閉めた。そして車の窓を少し開け、
「良いね。別に研究所もあんた達が憎いわけじゃないんだよ。あんた達がちゃんとご飯を食べられてるか心配しているだけなんだからね。ちゃんと出席するんだよ」
と言い残して黒塗りの車は引き返して行った。
タキシは何も言わずにウージの様子を心配そうに見守っている。今は気を張っているが、二人だけになったら、さすがに泣き出すだろうか……
しかしウージは冷静に、落ち着いた声で、
「きっと罠だ。普通そうだろ。俺達がノコノコこの場所に行ったら、捕まえるつもりだよ。葬儀場なら、ヤツラの仲間を潜り込ませていても、不思議じゃないもんな。お、俺は行かねぇ。もぅあんな所に戻ってたまるかよ」
そう言って、ハガキを海に捨てようとしたが、思いとどまって、乱暴にズボンのポケットにねじ込んだ。

――

夕方、フクタの母が買い物に行くと、待ってましたとばかりに、二人は土蔵から庭を通ってリビングの窓を勝手ににカラカラと開けて入って来る。そしてウージはテレビをつけてザッピングしはじめる中、タキシは勝手に戸棚からお菓子を出して食べている。
フクタは地下室で記録を取りながら、
――はぁ~~~
と深い溜息をついた。研究が一向に進まない……良いところまで来ているという実感はあるのだが、結果が出ない。
この地下室の棚もだいぶ手狭になって来た。この棚に並んだシャーレを半分ほど、土蔵に移そう。記録は、行ったり来たりで面倒だが、出来るだけ実験の量を増やしたい。
フクタが地下室から上がって来て、リビングに入ると、
「よー邪魔してるぜ」とウージがテレビを見ながら、声をかけて来た。
ウージにいつもと変わった様子はない。
しかしタキシはソワソワと落ち着かない様子だった。いつもはお菓子に夢中になってフクタに気づかない事もあったが、今日は、フクタの顔を見るなり、食べるのやめて、何か言いたそうにフクタをチラッチラッと見ている。
フクタはタキシの様子に気づいて、顔を斜めに傾けて見上げ――さ、どうぞ――というように促した。
「そ、その、今日、二人で外を散歩してたらさ……」
その時、
「おい! タキシぃ! そのガキンチョに何でもペラペラと余計な事をしゃべるんじゃねぇよ」
ウージがテレビを見たまま、怒鳴った。
「だ、だってさ、僕、ちょっと考えられないんだよ。もう、どうしたら良いか、ウージ君は平気そうにしているけど、やっぱりいつもと違うと思うよ」
「き、気のせいだよ」
「だって、ほら、ウージ君、テレビ、今、見てるヤツ子供番組だよ。そんなのウージ君いつも見ないじゃないか」
ウージはハッとテレビを見ると、
「お前が余計な事、言い出しやしないか、手を止めていただけだ。案の定、ペチャクチャしぇべりやがってぇ」
「だって、お父さんが死んだんだよ? 平気なわけがないよ」
フクタは大きく目を見開くと、テレビを見ているウージの後姿を凝視した。
「あっ! とうとう言っちまいやがった! もう良い、好きにしろ! 俺は風呂に入って来る。おい、ちょっと風呂借りるぜ」
ウージはそういうとリビングを出て行った。
タキシはやっと開放されたと言わんばかりに、今度は堰を切ったように昼間に起こった事をフクタに話した。
フクタはウンウンと頭で小さく相槌を打ちながら、タキシの話を聞きながら、たまにタキシに何かボソボソと話している。
暫くすると、ウージがバスタオルで頭を拭きながらリビングに入って来た。
「で、どうだ? 小学生のお悩み相談室は終わったか? 何か心温まる話でも聞けたかよ?」
ウージの挑発的な言葉に、タキシはキッとウージを睨んだ後、すぐにニッコリと笑い、
「うん、やっぱりフクタ君に相談して良かったよ。フクタ君が言うには、確かに葬式に主席するのは人数が多くて危険そうだけど、火葬場に行けば良いじゃないかって。葬式に顔を出さなかったら、連中も諦めてだいぶ人数も減るんじゃないかって。ウージ君にとっては儀式が大事なんじゃなくて、お父さんとお別れが出来るかどうかが大事なんじゃないかって。どう? ウージ君?」
タキシは得意そうな顔でウージを見ている。
ウージは、何となく胸のつかえが取れた気がして、振り返ってタキシを見て、
「なるほど! 隠れていて、あいつらを油断させるわけだ! うん、それは良い、思いっきり明日は遅れて行くか!」
タキシは少し元気になったウージを見て、ホッとして、持っていた袋からクッキーを一つ取り出すと、フクタの口にハイっと差し出した。
フクタは照れくさそうにパクっとそのクッキーを食べた。

――

翌日の葬式は正午からだったが、二人は葬儀場の近くのマンションから葬儀場を監視していた。
二時過ぎになり、だいぶ人も減って来たようだ。
「そろそろかな? そろそろ行かないとまずいんじゃないかな?」
タキシはしきりに時間を気にしている。
「ま、まだだ、もう少し様子を見よう。あっ! あのババぁ入り口に立ってやがる。俺の事、待ってやがるな。あっ、諦めて帰って行った……よ、よし! 行ってみるか」
ウージはようやくマンションの階段を降り始めた。
火葬場は葬儀場から少し離れた場所にあり、小屋になっていた。
「し、しまったぁ!」
ウージがそう言ったのもムリはない。その小屋からぞろぞろと十二人くらい出てきて、部屋の中に誰もいなくなったからだ。
「ああーモタモタしてるうちに終わっちゃったよう」
タキシが悔しがっている。
二人は諦めきれずに小屋の中に入った。すると人が一人寝られるくらいのスペースに一本の原木が置かれていた。
ウージは見覚えがある気がしたが、
「な、何だ? これ? そ、そう言えば、ここから出てきたヤツラ、誰も骨壷持っていなかったよな」
「う、うん……何? どういう事?」
「わ、わからねぇ、何だ? この木? そ、そうだ、タキシ、アイツらが戻って来ないかどうか外で見張っててくれ」
タキシは、外に出て行った。
その木は枝も何もついていないが、木の皮は剥がされていない。
ウージは何とはなしにその木に触った。
「えっ? し、湿ってる! 何で?」
――あっ!
その物体は、研究所ビルの保管室に整然と立てかけられていたものと類似していた。
その時、タキシが入って来て、
「来たよ。ヤツラが戻って来た」
二人は慌てて小屋から出て物陰に身を潜めた。
男が三人くらい小屋の中に入って行った。どうやら研究所の連中のようだ。暫くして男たちが出てくると、白い布にくるまれた、子供と同じ大きさくらいの包を持って出てきた。三人で運んでいるのでそれほど重くはなさそうだが、布の中に入っていたのはさっきの湿った原木に違いないだろう。
男達が去った後、ウージがもう一度、小屋に戻ると案の定、湿った原木が消えていた。
いずれにせよ、フクタが言う、ウージの父とのお別れの儀式が失敗したのは確かだった。
「俺、ちょっと小便して来るわ」
とウージが言うと、建物の影に歩いて行った。
「えっ? ウージ君、トイレ、こっちだよ。建物の中だよ」
「バカ! そしたら誰かと会うだろ」
ウージが用を足していると、そこに研究所の研究員らしい男が現われた。
「チッ! 外も駄目ってわけか」
ウージは急いでチャックを閉めると、メリケンサックを指にはめた。
「さぁ! 来いや~!」
襲い掛かって来た研究員のコメカミにガッツン! と右フックをお見舞いした。あっという間の早業だった。男の頭はポキッと折れて、そのまま前に突っ伏した。折れた首の所から、シュー、シューと変な音を立てて蒸発しているような白い煙のようなものが立ち上っている。
「うわっ! 相変わらず気持ち、わっりぃぃなぁ」
と言いながら、足を持ち、そのまま、ビルの隙間のずっと奥に引き摺って行った。どうやら仲間はいなかったようなので、このままに隠しておけば、暫くは気づかれないだろう。
ウージがタキシのいた場所に戻ると、タキシの姿がなかった。
「ったく……あいつ、どこに行ったんだよ。アイツもトイレかぁ?」
しばらく待っていたが、もしかしたら、タキシも自分を探してるいるのかもしれないと思い直し、先ほどの建物の裏に戻ってみた。
――あれ?
もう白い煙のようなものは立ち上っていない。
近づいて見ると、先ほど見た湿った原木と同じ物がそこに転がっていた。
それを見るなり、ウージの膝がガタガタと震えだした。止めようとしても、まったく自由が効かない。悟った。
――さっきの原木が親父だったのだ!
急に涙が出てきた。
――アイツら! アイツら! ぜってぇ許さねぇ!
激しい憎悪の気持ちが沸き上がって来た。
ウージの膝から起こった震えは、今や全身に広がり、怒りの燃料になって行った。

――

その時、タキシは暗い倉庫の中にいた。葬儀用の食品のダンボールが、この倉庫に運ばれているのを目撃したからだ。
――いつもいつもフクタ君の家からくすねているのも悪いからね。こんなにあるんだからダンボールの一箱くらい盗んでもわからないだろ。
タキシはダンボールを担ぎ上げようとした時、少し開いているダンボールに気づいた。フタを開けてみるとリンゴだった。
一つ取り、ガブリとかじりついてムシャムシャと食べ始めた。
――このリンゴ、美味いな。きっと高級品だな。
その時、倉庫の入り口に入った来た男がタキシに気づいた。
「泥棒!」
大声で叫ぶとさらに二人増えた。
「ひゃあ! し、しまったぁ!」
タキシは慌ててリンゴを投げつけたが、まったく効き目がない、ジリジリと三人が近づいて来て囲まれつつある。
と、その時、倉庫の中に駆け込んで来た者がいた。
三人の男のうちの一人が振り向きざまに頭をガツンと叩かれ、ポキンと乾いた音と共に、そのまま膝から崩れ落ちた。
「おいタキシ! こっちに来い!」
タキシは言われるままにウージのところへ全速力で走って来てウージの後に隠れた。
「タキシ、ここは良いから先に逃げとけ! 後から行くから」
タキシはウンと言うと倉庫の外に逃げて行った。
――ウージ君なら、他の二人もガツンとやってすぐに追いかけて来てくれるだろう。さっきのマンションの階段のところで待っていよう。
その時、白い布にくるまれた原木を運んで来た三人が倉庫の中に入って来た。ウージは前に二人、後に三人という状態になってしまった。
「良いところに来てくれた。今、仲間がやられたところだ。腕に何かはめてるぞ! 腕に気をつけろ!」

――

夕方になってもウージは帰って来なかった。もう倉庫から逃げて来てから三時間は経っている。先にフクタの家に戻ってしまったのだろうか? それにしても、帰ってからタキシがいない事に気づいたら、ウージなら、すぐにここだとわかって迎えに来てくれるだろう。
――捕まってしまったのだろうか?
その時、階段を上ってくる音が聞こえた。
――やっと来た。ウージ君、遅いよ!
上がって来たのはフクタだった。夕方になっても二人が戻って来ないので、様子を見に来たのだと言う。
「よ、よくここがわかったね。えっ? この辺りで葬儀場の様子を見張れる場所、ここしかない? ハハ、フクタ君には何でもわかっちゃうんだね……」
と言うなりタキシは目からポロポロと涙を流し始めた。
それでもタキシがやっとの事で状況を説明すると、フクタがその倉庫に行ってみようと言い出した。
「そーだね、うん、わかった。泣いていても仕方ないもんね」
二人が倉庫に着いた時には既に人の気配がなかった。
倉庫の扉を開けてみると開いたので二人は中に入り、タキシが逃げて来たあたりを歩いていると、足に何かがあたった……
カラーン
――? あっ!
「これ、ウージ君のメリケンなんとかだ!……捉まっちゃったんだ! ウージ君、僕の事を助けて、もう僕、なんてことを……ああぁーん」
と言うや、タキシはまた泣き出した。
フクタはしゃがみ込み、ペンライトの光で床を照らし、何か手がかりがないか調べ始めたが、突然、倉庫の扉の前に立つ影が見えた。
「ひぇええええ! やっぱり来るんじゃなかったぁあ」
「しょうがねえな、この体力バカは」
聞き覚えのある声だ。
「ウージ君? ウージ君なの? 良かったぁー無事だったんだね。わ~ん」
抱きつこうとするタキシに、
「おい! 泣いてる暇はない。すぐに逃げるぞ!」
と言って走り出した。
タキシとフクタは慌てて後に続いた。

土蔵につくと、ウージは、二人に自分の身に起きた事を話し始めた。
まず、五人に囲まれて、観念してメリケンサックを外したこと。捕まった後、葬儀場の中の別室に連れて行かれて、縛られていたこと。だいぶ暗くなって来た時にサングラスにマスクの男がやって来て、ウージの拘束を解いて、倉庫に仲間が助けに来ているから、一緒に逃げるように言われた、という内容だった。
タキシは、しきりに、
「ふーん、不思議だねぇ。研究所の中にも僕らの味方がいるんだねぇ……」
と首を傾げている。
ウージはすべて話した後、疲れたと言って横になってしまった。
フクタも不思議に思いながらも土蔵を後にした。

――

学校が終わり、フクタが家路に向かっていると、フクタを呼ぶ声がした。振り向くと、タキシが角から顔を出して手を振っておいでおいでしている。
行ってみると、タキシの後にウージもいた。
「あのさ、僕達さっき歩いてたらさ、フクタ君のパパを見つけたんだよ。もうだいぶ帰って来てないんでしょ?」
フクタはコクっと頷き、案内してくれるように頼んだ。
「最初、ウージ君が見つけたんだよ。駅の反対側で勧誘活動してたんだ」
三人で駅の反対側の大通りに言ってみると、果たしてフクタの父親がパンフレットらしきものを両手に抱えて、配っていた。
フクタはつかつかと歩き出すと、父親の正面に立った。
フクタの父親はフクタを見ると、
「君、お父さんとお母さんは近くにいるのかな? いたら、このパンフレット渡してくれる?」
と言いながら、パンフレットをフクタに差し出した。
フクタは一瞬呆然としたが、すぐにパンフレットを父親の手から叩き落とした。
「あれれ、暴力はいけないね」
と言いながら、しゃがみ込んでパンフレットを拾おうとした父の顔にフクタはすかさずペンライトを当ててグッと覗き込む。
その瞬間、フクタは後に二、三歩よろけながら後ずさりした。珍しくフクタが、何が何だかわからない、といった表情で動揺しているように見えた。
フクタの父がその様子を見て、
「おやおや、危ないね。君、大丈夫かな?」
と、なおもしつこくフクタにパンフレットを渡そうとした。
フクタはじっと父親の顔を見ながら渡されたパンフレットを受け取るとクルっと反転してウージとタキシのところへ戻って来た。
「大丈夫?」
タキシはフクタの顔を除き込んだが、フクタはそのまま真っすぐ、何事もなかったかのように歩き始めた。
フクタの後を二人が追う。
タキシが声を震わせながら、
「ふ、フクタ君、も、もしかして、フクタ君のパパがフクタ君のことを忘れちゃってた? て、そういうこと?」
フクタは振り返らずに何も言わずに歩き続けている。
「そ、そんなぁ……そんなことって……聞いた事がないよ!」
尚もタキシが後で大騒ぎしているが、ウージは無関心な様子でついてくるだけだった。
「ねぇ、ウージ君、そんなの聞いた事ないよねぇ」
ウージは何も答えず、フクタは父から渡されたパンフレットを大事そうに持ち、張り詰めた表情で歩き続けた。

――

フクタの母親が買い物でいない夕方は、土蔵の二人がリビングに来てテレビを見ているのが日課になっていた。
その日もフクタが地下室から上がってリビングに入ると、リビングの窓をカラカラと開けながら二人が入って来た。
「タキシぃ! ありゃ、まずいだろ! びっくりしたぞ! き、木とかにパンツ干すなよ!」
「ご、ごめ~ん……フクタ君の家からは死角になるから平気かな? ってぇ~」
「フクタの母ちゃんは、ちょっとボケてるから気づかねぇかもしれねぇけど、ご近所さんが気を利かせて、お宅の庭の木にパンツが引っかかってますよ~。風で飛ばされたんじゃ? なんて言われたら、お仕舞いだっつーの!」
「う~ん、でもな~、この間はフクタ君に裏の公園に干すな! って言われちゃったしなぁ~じゃあ、どこに干せば良いんだよ~」
ウージが、う~んと言いながら、テレビのリモコンのスイッチを押すと、野球の始球式の様子が映しだされていた。
「ねぇ、この子、知ってる? 可っ愛いよね。マリモちゃんって言うんだよ」
タキシは珍しく目を輝かせているが、野球そのものには関心がないようだ。
「ば、バカにすんな! それくらい俺だって知ってるよ。国民的アイドルってヤツだろ。まっ、俺たちには関係のない世界だけどな」
ウージが何気なくフクタを見ると、フクタが何か呟いた。
「さっすがぁ! フクタ君! フクタ君も可愛いと思うってさーあっ! 始まった! マリモちゃん投げるよ。ねぇウージ君」
「わーってるよ。俺も見てるんだから。ハッハー下手っくっそだな。届かねーよ」
「もーーう! ウージ君、そこが可愛いんじゃないか。もしビューン、バシッなんてすっごい球が行ったら引いちゃうよ」
「はは……そりゃそうだ――あれ? おい、どうした?」
フクタが席を立ってリビングを出て行った。
「あ……地下室……だって、記録を取る時間だって」
「ったく、アイツは落ち着きがねーなー」
と、その時、フクタの母が買い物から帰って来て駐車場に車を入れる音が聞こえて来た。
「あっ! おい、タキシ! 俺らも戻らねえと」
「ありゃー、もぅもう少しマリモちゃん見ていたかったなぁ……」
二人は土蔵に戻って行った。

夕食の時間、フクタが食卓に付くと、フクタの席のテーブルの上に封筒のようなものが置かれていた。開いていたので中身を見ると、「マリモちゃんディナーショー招待券」と書かれているチケットが三枚入っている。
フクタの母がそれに気づいて、
「あーそれね! ママすっごいのよー。商店街の福引で一等賞当てちゃったのよー。マリモちゃんって今、すっごい人気のアイドルでしょ! ママも見たいわー。でも残念な事にその日、ダンス教室の発表会があって、さすがに休めないのよー、フクタと行きたかったなー。パパはどーせムリだろうけど……そうだ! ねぇ、フクタ、最近、仲良くなったお友達と一緒に行ってらっしゃいよ」
フクタがチケットを見たまま、コクっと頷いたのを見て、フクタの母は目を輝かせた。
「そうよ! それが良いわよ。お小遣いも沢山あげるから楽しんでらっしゃいよ」

翌日の夕方、フクタの研究は相変わらす進展を見せず、地下室で散々深い溜息をつき、重い足取りで、地下室から上がって来るとウージとタキシが戸棚から勝手にオヤツを出してテレビを見ていた。
フクタがタキシに何かを言うと、
「え~? それは大変だねぇ~わかった。手伝うよ。ウージ君、フクタ君が地下室に置いてあるシャーレが増えちゃったから、土蔵に一部移したいんだってぇ、手伝ってあげようよ」
「ええぇっ? あのガラスの皿、土蔵に持ち込むのか? 大丈夫? か、痒くなったりしねぇだろうな?」
フクタは地下室に降りて行った。タキシもフクタに続き、お盆の上に大量のシャーレを持って上がって来た。ウージはリビングの窓をカラカラと開けて、
「おい、タキシ、気をつけろよ! 落とすなよ!」
「もう~ウージ君も台所のお盆持って手伝ってよ~~、まだまだいっぱいあるんだから~~」
「へいへい、ホンット、庭に肥料を撒かせたり、人使いの荒いガキだよ」
地下室から土蔵へのシャーレの移動は一時間ほどで終わった。
「ふ~~……結構あったな。しかし、シャーレがペットって変わってるよな~一見すると白い菊の花に見えない事もないけどな」
「へ~~寒天なんだ。寒天に菌糸を培養? させるんだ。ふ~ん、えっ! もう! 食べないよ! いくら僕だってぇ……ちょっとあれは引くってぇ、ハハハ……えっ? お礼? 良いよ、良いよ、そんなの、僕らの方が世話になりっぱなしなんだから」
フクタは引き出しにしまっておいたチケットを出してタキシに渡した。タキシは何だろうと首をかしげながら中を開けて、目をまんまるくしている。
「こ、こ……これ! マリモちゃんのディナーショーの招待券じゃないか! え? 何、これってファンクラブの人でも入手するの難しいんだってよう? えっ? フクタ君のママが福引で当てた? す、すごい! フクタ君のママ……えっ? 僕達と三人で? ほ、ホント? ねねねねね、ウージ君、見て見て見て! す、すっごいよ! ねぇ、ま、マリモちゃん間近で見られるよ!」
チケットを渡されてウージも目を丸くしている。
「た、確かに、こりゃあ、すげーわ! で、でも俺たち……その……か、金ねぇし」
「フクタ君が出してくれるってさ。お小遣いもいっぱいもらったんだってぇ! フクタ君のママ、太っ腹だね!」
「そ、そんな、このガキにそこまで世話になれるかよ! タキシ、お前、ずーずーしいにもほどがあるぞ!」
「えっ? でも、フクタ君も行きたいってさ、一人じゃ、電車に乗るのイヤだって、連れて行ってもらいたいんだって……ねぇ、そういう事なら、ねぇウージ君~」
タキシは大きな背中を丸めて、すがるような目つきでウージを見る。
「わ、わーったよ、ま、そういう事じゃ、仕方がないな。つ、つまり俺たちがコイツの引率者って事だよ。うん、そーいう事だろ、つまり」
「そうそう、そういう事だよ。あぁ~楽しみだなー」

――

ディナーショー会場は大盛り上がりだった。最初はイヤイヤ連れて来られたんだと言わんばかりだったウージも、ディナーショーの中盤にはすっかりご機嫌になっていて、拍手なんか会場で一番煩いくらいだった。
「あ、あれだな。その、まマリモちゃんは、歌はウメェな! 始球式の時はへなちょこだったけど、歌は上手いよ、うん」
「そーだね、僕も知らなかったなぁ……えっ? 何? フクタ君、えっ? 途中、口パクだった? う、うそーそれはないよ、ディナーショーだよー?」
フクタはイタズラっぽく笑っている。
「たまにフクタ君の言う事、冗談なのかわかんないよ」
タキシはちょっと困ったように両肩をあげている。
と、その時、中年のおばさんがフクタ達の席に近づいて来た。
「どうですか? ショーは楽しんでいただけていますか?」
三人は顔を見合わせて、あっ、はい、と答えると、
「出来れば、マリモの楽屋に来て頂けませんか? あっ、申し遅れました。私、マリモのマネージャーです」
渡された名刺をしげしげと見て、目をパチクリしていた三人だったが、好奇心には勝てず、マネージャーと称する女について行った。
マネージャーの女が、楽屋と思われる部屋の前でコンコンとノックをすると、中からハーイという澄んだ声が聞こえて来た。
ドアを開けると、鏡の前で化粧直しをしているマリモがいた。
「あっ! ごめんなさい、変なところ見られちゃった。お呼びしたのすっかり忘れてたわ」
恥ずかしそうにしている姿は、普通の少女と変わらない様子だった。
「ど、どーも……」
三人は挨拶したきり固まっている。
「ショーは、楽しんで貰えてますか?」
「は、はい、もう、すごく感動してます! た、楽しみにしてた甲斐がありました!」
ウージは何とか上ずりながらも声を発したが、タキシはウットリとマリモの顔に釘付けだったし、フクタも普段は人の顔を凝視する事などなかったが、これが最初で最後と思っているのか、食い入るようにマリモの顔から目離さなかった。
「急に呼び出して、ごめんなさいね。普段、年が近い子ってあんまり来ないから、もしかしたら、お友達になれるんじゃないかって思って……」
「お、お友達ぃ?」
それには思わずタキシも絶叫した。
「私のメルアド教えるわね、なかなか返信できないかもしれないけど、それでも良いかな?」
最初はテンションが上がっていたウージとタキシだったが、みるみると小さくなって行くのをフクタは見ていた。
二人とも携帯など持っていなかったのだ。悔しいやら恥ずかしいやらで、二人とも半べそをかいている。
フクタがタキシにボソっと何かを言ってから、マリモに自分の携帯を出して近づいた。
タキシはドギマギしながら、
「あ、あの僕ら、今日、家に携帯忘れちゃって、この子だけ持ってるから、この子とメルアド交換して欲しいんですけど……」
タキシは、断られるんじゃないかと不安そうにマリモを見たが、
「あらっ! あなた可愛いわね。うん、OK!」
マリモはあっさり承諾してフクタとメルアドの交換を済ませた。
「マリモちゃん、そろそろ時間ですよ」
マネージャーの女が声をかけると、
「あっ! ホントだ、じゃあ、後半のショーも楽しんでいってね」
「はーい!」
三人はご機嫌で返事をして楽屋を出た。

ディナーショーが終わり、帰りの電車の中、タキシは何度も同じ事を言っている。
「今日は楽しかったね~最高だったねー」
「そ、そーだな」
普段は、鬱陶しそうに途中から返事をやめてしまうウージも今夜はよほど機嫌が良いらしく、飽きずに何度も同じ事をいうタキシに付き合っていた。
その時、フクタの携帯にメールが届いた。フクタが読んでいる事にタキシが気づき、
「えっ? 何々? もしかしてマリモちゃん? えっ? ホントに? ちょ、ちょっと見せて! えええ~~! ? 今度の日曜日にウージ君とタキシ君の二人で私の家に遊びに来ませんか? えーー? すっごい、ウージ君、お誘い、お誘いが来たよ、今度はマリモちゃんの家だよ、夢みたい! ねーねーウージ君!」
タキシは電車の中だというのにもう声の抑制を失っている。
ウージもニヤニヤしながら、
「さ、さすが……だな、芸能人の社交辞令かと思ってたけど、さ、さすが国民的正統派アイドル、せ、誠実な子だ」
ウージも行く前と完全に評価が変わっている。
フクタは携帯のボタンを慣れない手つきで押していたが、やがて打ち終わった様子で、さも送信しましたという手つきで最後のボタンを押した。
「フクタ君、早い! もうOKの返信してくれたの? えっ? 何? フクタ君、これ!」
タキシが血相を変えて返信した内容を見て、珍しく怖い目でフクタを見ている。
「な、何だよ、タキシ、らしくねーじゃねーかよ。ちょっと俺にも見せてみろ」
ウージが携帯を奪い取り、返信内容を読み上げた。
「えっ……と……なになに? ――ディナーショーは楽しかったです。これからもがんばって下さい。でも残念ですが、ウージ君とタキシ君は付き添いで来てくれただけで、特にマリモちゃんには興味がないそうです。だから残念ですが、マリモちゃんの家には行けないそうです。勿体ない話ですが、どうぞお気を悪くしないで下さい。いつも応援しています――すぅ~~?」
さすがにウージもフクタを睨みつけた。
「フクタ君……どーいうこと?」
タキシの声のトーンがいつもより低い。フクタがチラッチラッとタキシとウージを交互に見ながら話を始めた。
「えっ? まさか! ホント? マリモちゃんはアイツらの手先? フクタ君、どうして、そんな事がわるのさぁ! えっ? 僕達の名前を何で知ってるんだって? ああー! ホントだ。何で知ってるの? ウージ君?」
「そ、そんなの俺が知るか? 確かに、俺ら名乗ってねぇぞ! どこにも名前書かされてねぇし……これはフクタの言ってる事が正しいかもな。それにやっぱり、よくよく考えてみるとディナーショーに当たるなんて変だぞ。あ、あれだな……ノコノコ、マリモちゃんの家に行ったところをヤツラ捕まえる気だったんだなぁ……チクショー! まんまと引っかかるところだったぜ!」
ウージはフクタの言う事を信じる事にしたようだ。
「そ、そんな~~……あの可愛いマリモちゃんがヤツラの手先ぃい? そんなぁ……」
タキシは納得しなければならいのは承知の上でも、なかなか納得出来ない様子だ。

ウージとタキシは土蔵の中では二階にいる事が多かった。二階の部屋には格子窓があり、その隙間から外を眺める事が出来た。
その晩も、格子窓からフクタの家を見ていたタキシが、
「あれっ? ウージ君、こんな深夜にフクタ君が家から出て来たよ」
「えっ? 嘘だろ、人違いじゃねーのか? どれ?」
ウージも格子窓から外を覗いた。
「ホントだ! アイツ、こんな真夜中に何やってるんだ。もう母ちゃん寝てるだろ」
「いくら何でも危ないよねぇ」
タキシは心配になって来た。
「そ、そうだな、おい、タキシ行くぞ! ボディガードだ。こんな深夜に一人歩きは危険だぞ」
二人は慌てて土蔵を出てフクタの後を追った。
フクタは駅前まで来ると立ち止まり、携帯を見ているようだった。
「フクタ君、、何してるんだろ?」
タキシが声を張り上げて呼ぼうとした時、
「ちょっと、待ってタキシ! あれっ!」
とウージが指を指した。
タキシがその方向を見ると、暗闇の中にタクシーが近づいて来るのが見えた。
タクシーはフクタの前で止まり、ドアが開くと、マリモが出てきた。マリモはタクシーに近くで待っていてくれるように頼むと、フクタとバス停の椅子に座って話し込み始めた。
「あの二人、何を話してるんだろうね?」
「俺が知るか!」
「どっちが呼び出したのかな?」
「そ、そうだな、この感じだと……フクタかな?」
ウージはタキシのどっちが呼び出したのかという質問に、なるほど、どちらかが会おうと言わなければ、こうはならないのだと思った。
――しかしなぜ?
「フクタ君、手が早い! ぼ、僕、侮ってたかも……」
「ば、バカ! よせ!」
フクタはマリモに大きく口を開けさせ、ペンライトを当てて口の中を覗いている。
「フクタ君! て、手が早い! な、何? あ~やめて~~僕のマリモちゃんに……」
「ば、バカ! タキシ、よせ! 痛っい! 腕を掴むな! このクソ力! よく見ろ! 何か様子が変だろ!」
暫くマリモの口の中を覗いていたフクタがマリモに何かを渡すと、マリモは待たせてあったタクシーに乗り込み、帰って行った。
フクタは家の方へ歩き始めたが、二人はフクタに声をかけられずに隠れながら後をつけている。
フクタが家に入るのを見届けてから、二人は土蔵に戻ろうした。
と、その時、背後から何者かに取り抑えられた。
「んーー?」
ウージは誰かがタキシの口を抑えているの見た。
――タキシ!
と声を発する間もなく、今度はウージが口を抑えられた。ウージは薄れゆく意識の中で、
――あぁ……ついに捕まった……
と思った。

――

目が冷めると二人とも、牢屋に入れられていた。
「あっ、ウージ君! やっと目が覚めたね!」
タキシが嬉しそうに声を上げた。
「う~ん、なんかまだ眠ぃー頭がガンガンする……」
「うん、するね」
タキシも頭が痛い事を思い出して眉間にしわを寄せた。
「ここは……牢屋か……研究所の中にこんな場所があったんだな。今度は、また、だいぶ待遇が良さそうだ」
「だね。いずれこうなるような気もしてたけど、やっぱり憂鬱だね」
「まぁ、土蔵の中も似たようなもんだけどな。俺達はよっぽど暗闇がお似合いってわけだな」
少し自嘲気味にウージは苦笑いした。
「ねぇ、ところで何で土蔵に隠れていたのバレたのかなぁ」
「…………」
ウージは考え込んで黙っている。
「ま、まさかフクタ君がマリモちゃんに俺達の事をチクったぁ?」
「ば、バカ! そんな事、考えてねえよ」
「もしかして、フクタ君、マリモちゃんの事、独占したくて、僕達のことぉ?」
「…………」
「ねぇ、ウージ君、だっておかしいよ。僕達には合わせないようにしておいて、自分は僕達に隠れてコソコソ会ってたんだよ?」
タキシはだいぶ鼻息が荒くなっている。
「タキシ、ちょっと落ち着けぇ! まぁ、わかっている事は、あのガキは俺達に何か隠してるって事だな……」
「ひゃあ、信じられないよ。僕、フクタ君の事、本当の友達だと思ってたのに、こんなのってないよ、酷いよ。やっぱり男の友情って、女の前では無力なの~? もぅ……僕、泣きなくなって来たよう~」
「だから、お前もしつこいな、たぶん、そういう隠し事じゃねぇって……」
その時、牢屋に近づいて来る足音が聞こえた。
その姿は施設長だった。
「やっと戻って来たね。少年達よ。どうだった? 外の世界も、そんなに楽ではなかっただろう」
タキシは施設長の顔を一瞬見たが、ケッと横を向いた。
タキシはガタガタと震え出した。これから一体、自分達がどんなに目に合わされるのだろうと不安で一杯になり、想像もつかないような拷問を受けるのではないかと怯えていた。
「君たちは、ずっと監視されていたのだよ。君たちがあの子を苛めっ子達から守ってあげた事があっただろう。そのおかげで小学校の教員をやっている研究員から報告があったのだよ」
チッとウージは舌打ちをした。
「さて、それで後をつけさせると、最近、研究員になったばかりの家の土蔵にいる事がわかってね。それからずっと君たちを見張らせていたのだよ。どういうわけか、あの土蔵の中には入れなくてね、温度のせいなのか……それは我々にも良くわかっていないがね。とにかく君たちが土蔵から出て来てくれないと接触できなかったわけさ」
――なるほど、それでよく、港で接触して来たわけだ。フクタがチクったんじゃなかったんだ。もうとっくに俺達は見つかって監視されていたってわけだ。
「ところでオッサン! そんなに暖かく見守ってくれていたのに、急にこんなに手荒な真似をしてくれるっていうのは、どういうわけだよ!」
ウージが怒鳴った。
「ハハハ、まあ、その何だ。時期が来たのでね。そろそろ回収しておかないと町中で騒ぎになるのも困るのでね」
「回収だと? 人を物のように言いやがって! だから、お前らはムカつくんだよ!」
と、言った時、ウージの後にいたタキシが、
「うヾうヾうヾうヾうヾうヾうヾうヾ」
と白目をむいて唸りだした。
それを見た施設長が喜びの声をあげる。
「おぉー! 遂に始まったか! そーか、そーか、タキシ君と言ったか、君は食い意地が張っておったからなあ、ウージ君よりも成長が早いらしい」
「タキシ! タキシぃー! おい、どうした? しっかりしろ! どうしたんだ」
ウージは慌ててタキシの体を揺らすが、タキシの口からよだれが流れた。
「おい! タキシ! しっかりしろ!」
「無駄だよ。我々の計算通りだよ。いや、二、三日早かったが……、君もいずれ、彼のようになるのだよ。フハハハ」
「おい! タキシ! しっかりしろ!」
ウージが思っきり張り手でタキシの頬を引っ叩いた。
「えっ! 何? ウージ君、痛いよ。いきなり」
タキシが正気に戻った。
「フハハハ……フハハハ……フハ。えっ?」
施設長の笑いが止まった。
「うん? まだか……うん、まぁ良い、計算どおりだ。うん想定の範囲内だ。そりゃあ多少のブレはある」
とやたらに言い訳がましく部下に聞こえるように大声で話していたが、
「では、また二、三日後に来るとしよう」
と言って去っていった。また牢屋の中に静寂が戻った。
「あれっ? 何が起こったの? 僕、急に目の前が真っ暗になって……え~っと、そうだ! 思い出した! フクタ君がマリモちゃん欲しさに僕達のことを売ったって話だ! 酷いよフクタ君、信じてたのに~」
「そこからかよ!」
ウージは呆れて、タキシの額をコツンと叩いたが、すぐに
――あれ? 何だ? 目の前が暗くなって行く…………
「ウージ君! ウージ君! どうしたの? しっかりして! ウージ君ってばぁ…………」
ウージの意識が遠のいて行った。

――

母親の車のエンジン音が聞こえて来た。買い物に行ったのだ。
フクタは何度も溜息をつきながら、記録を終わらせ、ギシッギシッと重い足取りで地下室の階段を上がり、リビングに入ったが、いつものように二人の姿が見えなかった。
リビングに入る前から、テレビの音が聞こえて来ない事には気が付いていたが、地下室から上がって来るのが遅くて、もう土蔵に引っ込んでしまったのだろうか?
いや、二人とも、一度も入って来た形跡がない。
――昼寝でもしてるのかな?
先日、土蔵に移動したシャーレの記録のついでだと思い、フクタは土蔵の中に入り、急な階段を登って行くと、二階の部屋はひんやりとした静寂に包まれていた。いつもなら、格子窓から外を見ているタキシの姿と、寝っ転がってボーっと宙を見つめて何を考えているかわからないウージの姿があるはずだった。
――おかしい……まだ港に?
港に行っても夕方になる頃にはすっかりと飽きて、待ちきれないとばかりに、リビングの窓を勝手に開けて入って来るのが常なのに……土蔵にもいないなんて……
――あっ! そうだった!
フクタは何かを思い出して慌てて土蔵の入り口付近に戻って、しゃがみ込んで、辺りを見渡した。そして、彼らが今朝からいない事がわかって、胸騒ぎを覚えた。
二人はフクタのアイデアで、出かける前には必ず小麦粉の粉を土蔵の入口付近に薄くばら撒いておくようにしていたのだった。
帰って来た時に足跡があったら――そして、それがフクタの足跡でなかったら――警戒注意報発生というわけだった。それなのに、よほど急いでいたのか、バラ撒かれていなかったのだ。
――二人の身に何かが起こった……いや起きている!
フクタはそう確信していた。恐らくヤツラに捉まったのだろう。
――どうしよう……
頭が回らない……とりあえず土蔵の棚に移したシャーレの記録を始めよう。自分に出来る事をやるしかない。
フクタは現在のところ、有害菌糸の成長を遅らせる菌糸の開発には成功していた。
有害菌糸を吸収した後、アポトーシス――細胞死――する菌糸だ。この菌糸は既にウージとタキシには与えている。そして昨晩、マリモを呼び出して、その処方をしたのだった。
また、この菌糸を地面に散布する事で、有害菌糸に侵された末期患者を近づけなくする効果があった。フクタは便宜上「結界菌糸」と呼んでいた。
フクタはこの結界菌糸を自宅の周り、特に土蔵の周りに散布していた。これらの散布は二人には肥料だと偽って、手伝ってもらっていたのだ。
研究員が襲って来るとしたら、恐らく研究員の中でも最も進行が進んでいる患者が投入されるだろうから、彼らの侵入は阻む事ができる。
あとはまだ菌糸を埋め込まれたばかりの研究員の侵入に気をつければ良い……はずだった……と、いうことは、二人はフクタの家の外で襲われたことになる。
――まさか! 昨晩遅くにマリモと接触していた時に土蔵から外に出た?
もしその時に捕まったのだとしたら……
フクタは事前に彼らに教えておかなかった事を後悔したが、どう説明すれば良いかわからなかった。その事を教えれば、彼らも感染している事を知らせなければならない。
フクタが開発した結界菌糸は、現段階では、有害菌糸の天敵菌糸と呼ぶにはお粗末過ぎる出来だった。単に進行を遅らせるだけに過ぎない。
マリモの状態はかなり危険だったため、急を要した。彼女には、自覚症状があったらしい、メールでやり取りしているの中で、たまに記憶障害が起こる事を心配していたのだ。
研究所の医者に見せても大丈夫だと言われたが、最近、どんどん酷くなる一方だという。
だからフクタの警告をすんなり受け入れてくれて、深夜なら研究員の親やマネージャーを欺けると言って会いに来てくれたのだった。
しかし、この事を二人に説明する事は、このままではいずれ死に至る、という事を伝えなければならないという事だった。まだ二人が気づいている様子はなかった……少なくともタキシは。最近のウージの様子は明らかにおかしい……もしかすると気づいてしまったのか? それを聞く事は無理だった。
フクタは二人と出会ってから内心、忸怩たる思いで過ごしていた。自分の無力感に何度も押し潰されそうになっていた。
しかし……
――地道な研究こそが彼らを救うんだ!
そう信じて記録と観察を続けて来た。しかし、天敵菌糸の開発に成功する前に二人が捕まってしまった。
――急がなきゃ、はやく、はやく、はやく……
フクタは棚にズラーと並べられているシャーレの様子を観察して手早くノートに書き込んで行く。
シャーレの中には、寒天が入れられアカパンカビが人口培養されていた。一見するとシャーレの中には真っ白な菊が咲いているようにも見える。
アカパンカビは人類が初めてゲノム配列の解読に成功した糸状菌である。フクタはその中で突然変異したものを見つけ、別のシャーレに移して有害菌糸の天敵になりうるか調べていた。
研究は着実に進んではいる。しかし、一向にブレークスルーが起こらない。発想は間違っていないと思う。でも、ここまで結果が出ないと、諦めて、別の方向性を探った方が良いのではないか?
最後の棚に移動して棚の最上部に目をやった時、フクタは仰天した。思わず、
「んもう~! タキシさんのバカーー!」
と声をあげていた。
タキシが洗濯したパンツが紐に吊るして干されていて、棚の最上部のシャーレを倒して、付着していたのだ。
これで最上部の棚のシャーレが全滅になる。この棚の列は実験のやり直しだ。
――もぅ! タキシさん、あとで、こってりお説教しなくちゃ……
……フクタはもうタキシの呑気な笑顔が見られないかもしれないと思うと……気が付くと、堪えていたはずの涙が、ポロポロと流れて来ていた。
そうなるともう、止まらない。
フクタは泣きじゃくりながら脚立に上がり、棚の最上部のシャーレを片付け始めた。
が!


――えっ! 何これ!
そのシャーレの中は、見慣れた白い菊状の文様が消えていた。フクタがここ一年以上費やしても上手く行かなかった結果があった。
フクタは喜んで声を上げるというよりも全身から力が抜けて、とても脚立に立っていられなくなり、脚立にしがみつくように震えながら降りてそのまましゃがみ込んだ。
――やったよ! やったよ! やったよ! 遂に天敵菌糸が生まれたんだ!
フクタの顔を喜びに満ちてはいなかった。これからやらなければならない――間違いでない事を証明するために――検証の量に圧倒されて青ざめていた。
――と、とにかく二人が手遅れになる前に急がなきゃ!
顔面は蒼白だったが目だけはギラギラと土蔵の暗闇の中で光っていた…………

――

フクタの母親が買い物がから帰って来ると、食卓の上にノートの切れ端が置かれていた。
何だろう? と思って手に取って読んでみると、
「これから一週間ほど土蔵に篭って研究します。学校には行けません。風邪を引いた事にしておいて下さい。食事も土蔵でするので入口付近に置いておいて下さい。とてもとても大事な研究なので、どうか邪魔しないで下さい。おかしな菌も持ち込まれると困るから、土蔵の中には入って来ないで下さい フクタより」
と書かれていた。
「えぇー? 何これ、学校行かないって、こんなこと今までなかったのにぃ……もしかして学校で虐められているんじゃ……ど、どうしよう……でも、あの子って言い出したら聞かない子なのよねぇ……もう! 肝心な時にパパはいないんだから~、もうアタシはどうすれば良いのよ~~パパは浮気するし、子供はグレちゃうし……」
フクタの母親は半べそをかきながら夕食を作り、トレーに乗せて土蔵の入口付近に置いた。
――まったく、あの子ったら、あのシャーレの事となると、本当に人が変わっちゃうんだから……
いつからだろうか? 祖父が生きていた頃、祖父からいろいろと教わっていて、とても楽しそうにしていた。あの子にとっては玩具と同じなのだろう。
その後、祖父が亡くなり、一時は興味を失ったかのようにも見えたが、やはり、元々、そういう素養があったのだろう。暫くすると、再び、土蔵から祖父の研究レポートを引っ張り出して来て、漫画のように読み始め、やがて祖父の遺品のダンボールからシャーレを出して来て、毎年少しずつシャーレが増えて行った。
しかし、それでも、暫くは、他の子供とゲームをやって遊んだりしていたし、テレビも一緒に見ていたし、今ほどの熱中ぶりではなかったはずだ。
ひどくなったのは……そう、二年ほど前からだ。
ある日、どうしても必要な祖父のレポートがあるから、ついて来てくれと言われ、地下室に一緒に行ったのだ。
そう言えば、フクタもあの頃は可愛かった。地下室を怖がって、一人では降りて行けなかったのだ。
行ってみると、地下室の壁の下の方のブロック塀が一部崩れていた。
フクタは研究レポートが収められていた棚を暫く呆然と見ていたっけ……そうだ、あれからだ……フクタが地下室に入り浸るようになったのは……
結局、あの子がやると言い出してしまった以上、一週間は様子を見てあげることにしよう。それでも出てこないようなら……土蔵の中に踏み込もう。それまで食事を置いて食べてさえいれば我慢しよう。そうフクタの母親は決心した。

――

ウージとタキシは、もう昼夜がわかならい状態で、ほとんど寝て過ごしていた。一週間は経っただろうか。断続的に襲われる発作にも、慣れて来ていた。一瞬苦しくなって意識が失くなるが、目が冷めるとスッキリしていた。
「ねえ、ウージ君、僕達いつまで閉じ込められているんだろうね。これじゃ囚人だよね。すぐに何か実験されるかと思ってたんだけどね」
「もう食事に混入されてるんだよ。実験は始まってるのさ」
ウージは壁にもたれかかり座りんだまま、タキシを見るともなく答えた。
――タキシは自分達の状況を理解しているのだろうか?
自分達がいずれ死ぬ運命にある事を……ウージはそれをタキシに聞いてみる気にはなれなかった。
気づいていないのなら、こんなに幸せな事はないんじゃないだろうか? ただ、あの施設長が言った所長の命令で恩恵を与える事になったという言葉だけが引っかかっていた。
その時、廊下を歩いて来る足音が聞こえて来た。また施設長だろうか? それとも他の研究員が自分達をどこかに連れて行こうというのだろうか?
牢に近づいて来た男を見てウージは驚いた。タキシも目をパチクリさせて正座している。思わず自分も姿勢を正しているのに気づいてウージは情けない気分になった。
その姿は、ごくたまに拝謁が許される存在である、この研究所の所長だった。六十歳前後だろうか老人というにはガッシリしている。
「まぁ、良い、楽にしなさい」
所長は二人を片手で、まあ良い、まあ良いというような押さえるような仕草をしながら言った。
「君らは……そう、フクタと言ったか? あの子と一緒にいたそうだね。あの子も、もう十二歳か……私が覚えているのはまだ八歳くらいだったかな?」
ウージとタキシはあまりに唐突な事に言葉が出なかった。
「ハハハ、私があの子の事を知っていて驚いたかね? 私はあの家に数年前まで出入りしていたのだよ。あの子のお爺さんはね、この有害菌糸の発見者なのだよ。まあ、私は彼の弟子というか助手というか、正式な学会のような研究じゃないからね。まあ、趣味と言ったところさ。あの土蔵を使わせてもらって研究ごっこをしていたのさ。しかし、我々はこの菌糸を発見してしまった。私は、ネズミで実験し、猫で実験し、犬で実験して、それで確信した。これなら恐らく人間も上手く行くってね。そう支配出来る。より進行が進んでいる者がまだ進んでいない者を支配出来るのだ。しかし、進行が進むと死に至る。しかし我々は遂に、その菌糸の進行を止める菌糸をも開発したのだよ。我々は「恩恵菌糸」と呼んでいる。しかしあの糞ジジイがせっかくの研究成果を封印しようと言い出したのだよ。まったく、あの糞ジジイは馬鹿げてやがる。散々、研究ごっこに付きあわせておきながら、いざ、成果をあげたら、すべての研究レポートを隠しちまいやがった」
老人はボーっと冷たい目で虚ろに見ている。その目はぞっとするような目だった。
「だから、あのジジイに菌糸を植え付けてやろうしたんだ。それで恩恵菌糸の培養方法を吐かせようと思ったんだが……クソッ! あのイマイマしい爺め! 死んじまいやがった。……最初は、息子が知っているんじゃないかとも疑ったがね……当時、息子夫婦達は海外暮らしでねぇ……あの家には住んでいなかった。だから知っているわけがなかったのだ。地下室があるらしいって知ったのは三年前だった。あの家を観察していたら、ごくたまにあの子と母親が階段の下の物置に入って行くじゃないか。そうさ、間抜けなものさ。ずっと物置だと思っていたんだ。つまり地下室の存在に気づけたのはあの孫のおかげってわけさ。それで私は、地下道を掘り進んで、地下室の壁を壊して、中から、あのイマイマしいジジイの研究レポートを盗み出したってわけさ。ハハハ……」
ウージとタキシは自分達が通った横穴はコイツが掘ったものだったのだと知って、不思議な気分になった。そして、だからフクタが最初に自分達を見た時にそれほど驚かなかったのかと納得した。
「まあ、何でこんな事を話したかと言うとね、君らにも、この菌糸の成長を止める。「恩恵菌糸」を埋め込む事に決めたからだ、もう少しで君らの自由意志はなくなる。その状態で進行を止めてあげる事にしたのだよ。君らはあの子と仲が良いらしいじゃないか。実はね、以前に君らを捕獲するために研究員達を向かわせたんだが、あの子の家や土蔵、それにあの子の通学路には近づけないと言うじゃないか……もしかしたら、あのイマイマしいクソ爺が生前に何らかの仕掛けをしておいたのかと思っていたんだが、まさかあの孫が開発したものだっとはね……恐れ入ったよ。もしかしたら、あの孫ならいつか、天敵菌糸を開発してしまうかもしれん。やはり、あの爺の孫だけあって、そら恐ろしいガキだよ。だから、あの子の捕獲は最優先事項になったのだよ。君らは何かと使えそうだ。せいぜい利用させてもらう事にするよ。どうだ? 本当は君らの命は燃え尽きようとしていたのだよ。でも、助かるのだ。友達に感謝しないとな。ハッハッハ……」
老人は愉快そうに笑って牢の前を去って行った。
――く、くっそー
ウージは何とか逃げ出す手はないものかと考えたが、意識がまた遠のいて来た。タキシを見るともう泡を吹いて気を失っていた……

――

フクタの母親はこの一週間ですっかり疲弊していた。土蔵の入口付近に置かれたトレーの食事がちゃんと減っているのと、たまにトイレに来る時に姿が見られるのだけが救いだったが、マスクをしてゴーグルをかけたままなので、表情までは見えない。しかし歩いている様子から、どんどんやつれて来ている感じがひしひしと伝わって来る。
――あの子ったら……もう、そろそろ止めないと……
たまにトレーの食べ終わった皿の下にノートの切れ端が挟まっていた。
「今のところ順調。大丈夫だから心配しないで フクタ」
と書かれていた。
その切れ端を見ながらフクタの母親は、
「心配するよー」
と呟く。
そろそろ約束の一週間が経とうとしている。
――どうしよう……もう、限界だ!
土蔵の中に入ってみるか……いや、あともう少しだけ……と思い留まることを何度も繰り返している。
その日も、とうとう日が暮れて来た。
突然、リビングの窓をカラカラカラと開ける音がした。
フクタが笑いながら入って来て、いきなり母親に抱きついた。
「良かった。終わった。終わったのね? 体は大丈夫? ちゃんと寝てるの? やだ、フクタ! 目の下にクマが出来てるわよ。明日も学校行かなくて良いから少し寝てなさい。ねっ? そうしなさいよ。あ、あと……」
フクタの母は安心して涙が流れそうになるのを我慢しながら、フクタの両肩を掴んで自分の体から引き離し、顔をしかめながら、
「お風呂、お風呂入りなさい。もぅ、なに? これ? くっさー」
フクタは少し顔を赤くしてコクっと頷いた。
フクタは風呂から上がると、少し寝ると言ってから自分の部屋に入って行った。

――

都心のビジネス街の中央に研究所ビルが建っている。
フクタはそのビルの正面玄関の前に立っていた。
ベストを着こみ、そのベストにはスプレー缶のようなものが前にも後にもびっしりと格納されていた。
まっすぐ、そのビルの中に入って行くと、黒曜石があしらわれた鏡のようなホール、その中央奥に受付嬢が座っていた。
フクタは脇からスプレー缶を一本取り出しながら、受付嬢に近づいて行く。その時、フクタの袖に引っかかって、別のスプレー缶が一本落ちた。
静かな玄関ホールの床にコン、コン、カラ~ン! カラ~ン! という金属音が鳴り響いた。
その音に驚いた受付嬢が、
「あの……何か落ちましたけど……えっ? すみません、ご、予約は……」
フクタは持っていたスプレー缶を受付嬢の顔に目掛けて一気にプシューと噴射した。
「キャー」
受付嬢は叫びながら気を失った。
しかし意識を失う直前に何かの警報ボタンを押したらしい。
一斉にジジジジージジジジジーという警報音がけたたましく鳴り響いた。
その音を聞きつけた警備員が五人ほど奥の扉から出てきた。
フクタは脇から、もう一本スプレー缶を取り出すと二丁拳銃のように両手で警備員達に向かってシューシューと吹きかける。
警備員達は、
「うわー」
っと口に手をあてたが、遅かった。
その時、先ほど気を失っていた受付嬢がムクっと起き上がった。
周りの様子を見て呆然と立ち尽くしている。
「あれ? アタシ……何で? ここ……どこよ?」
キョトンとして周りをキョロキョロと見渡している。スプレー缶には眠る効果はない。一瞬、気が遠くなるがすぐに意識を取り戻すようだ。警備員達も次々と意識を取り戻して行った。
「あれ? 何だっけ? 確かハローワークに行って端末叩いていて……えっと、それから……? ?」
しきりに首を傾げている。
フクタは受付嬢のデスクに周り込み、彼女が持っていた管内の案内図を勝手に物色している。受付嬢は何がなんだかわからい様子で黙ってフクタの様子を見ていた。
――仕方ない……
フクタは階段から二階に上がると、警報のせいで研究員達がパニックになって大騒ぎしていた。
その研究員達が慌てふためく様子を見て、フクタと同じ年くらいの子供達が四、五十人が大喜びで、はしゃいでいた。
フクタは彼らを見るなり、スプレーを噴射した。次々と子供達と大人の研究員達が倒れて行った。
――ここにはいない。
フクタはまた階段から三階に上がると、すでにフクタの来襲が伝えられていたようで、研究員達が一斉に襲って来た。フクタはスプレーをプシューシュープシューと吹きかけながら、進むが、とにかく数が多い。
さすがに相手の研究員達も警戒して顔を手で覆いながら近づいて来るので、なかなか効かなくなって来た。
その時、廊下の横の扉が開いた。
――……また新手か!
「フクタ! 完成したんだな?」
扉を開けて入って来たのはフクタの父親だった。
フクタはコクっと頷くと、背負っていたリュックをポーンとフクタの父親に投げた。
フクタの父親は投げられたリュックを受け取ると、中からスプレー缶を取り出して、一緒に研究員達の顔に吹きかけ始めた。
フクタの父親は、顔を覆っている研究員の手を無理矢理ひっぺがして強引に噴射している。
「フクタ! ここはパパに任せろ! 二人は最上階だ! 奥の大広間に連れていかれた。今、恩恵菌糸が植え付けられようとしているんだ。早く、急いで! パパは、他の研究員達を何とかするから!」
フクタは、それを聞いて目の色が変わった。小走りにスプレーを噴射しながら、一心不乱にエレベータに乗り込んだ。
フクタの父親は、フクタを追おうとする研究員達を後から捕まえては噴射して止めている。
襲いかかって来た研究員達は次々と意識を失って行った。

――

研究所ビル最上階の大広間では儀式が行われている最中だった。
「どうした? 何の騒ぎだ? えっ? 侵入者? 子供だと? ……ま、まさか……ちょっとそのモニターを見せなさい。えっ? 地下じゃないと見られない? わかった。そこへ私を案内しなさい。え~と……」
所長は大広間を見渡して、施設長の存在に気がついた。
「施設長! 後は君に任せよう。この儀式を続けなさい。私は少し確認しなければならない用事が出来た」
施設長は平伏しながら、
「ははー! 何という僥倖でしょう! 謹んでお受けいたしますぅ~」
所長は、では、と大広間を後にした。

――

エレベータのドアが開いた。フクタが最上階に着くと、研究員は数人しかいなかった。フクタは見つけ次第、スプレーを噴射して、振り返らずに、どんどん奥へ奥へと廊下を突き進んで行く。
その時、ピン、ポン、パン、ポ~~~ン! 館内放送の音が聞こえて来た。フクタの父親の声だ。
「ただいま、武装した者達が侵入して来ています。急いで、三階の大ホールに集まって下さい。繰り返します。ただいま、武装した者達が侵入して来ています。急いで三階の大ホールに集まって下さい」
――なるほど! パパ考えたね、一網打尽だ。
フクタはニヤリとしながら、放送につられて出てきた研究員達に噴射しながら奥に進んで行く。
やがてフクタは、廊下の奥の大広間の扉の前に立っていた。
扉に耳をあてると、中から大声で、
「恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ!」
何やら儀式が行われているらしい。自分達の声で館内放送が聞こえなかったようだ。
何人もの男たちの声がお経のようにどす黒く響いている。
フクタが入り口を開けると、入り口付近の男が、
「無礼者! 儀式の最中だぞ!」
と言いながら追い出すそぶりで近づいて来た。
フクタがプシューとひと吹きすると、例によって一瞬、立ち眩みをしたようにフラッとして、そのまま崩れ落ちた。
その様子を目の当たりにした者達は動揺し始めた。大広間の中央で、儀式を執り行っていた施設長も驚いた様子でフクタを見ている。
施設長は、側近の親衛隊に、フクタを捉えるように命じた。
命じられて近づいて来た親衛隊たちにプシューと吹きかけると、足が止まり、一瞬同じように崩れ落ちるかのように見えたが、親衛隊達は、何事もなかったようにフクタに近づいて来た。
――えっ? あれっ?
フクタは、持っていたスプレー缶を床に投げると、胸のあたりに付いているスプレー缶を取り出し、なおも必死に吹きかけるがまったく効果がない。また持っていた缶を床に投げ捨てた。投げ捨てられた缶からはシューとガスが漏れ続けている。フクタは親衛隊たちに追い詰められてジリジリと後退して行く。
「ハハハ、最初のは何の効果だったのか、わかないが、我々、恩恵を与えられし者には効かなかったようだな」
愉快そうに笑っている施設長の方にフクタが目をやると、施設長の前に跪かされている二人の少年の顔がハッキリと見えた。それは紛れも無くウージとタキシだった。どうやら既に意識がないようだ。二人ともフクタを見ても認識出来ないらしく、事件のあらましを傍観者のような目でボーっと見ている。
――かなり進行している、もう末期症状だ……
気が付くとフクタは後に回り込まれて捕まってしまった。フクタはバタバタと足を動かして抵抗したが、小さなフクタの体ではどうしようもなかった。
施設長はフクタが取り押さえられたのを確認して、満足そうに笑みをたたえながら、
「よし、では儀式の続きを始めよう。その子はそのまま捕まえておけ、その子にも特別に見学させてあげようではないか。我々は罰など与えない。その子は乗り込んでまで、この儀式が見たかったのだから、じっくり見学させてあげようではないか」
施設長が、
「ではこれへ」
と合図すると桐の箱に収められたシャーレが運ばれて来た。
施設長はシャーレのフタを開けると手渡されたバターナイフのようなものでシャーレの中の紫色の菌糸のかたまりをゴッソリとすくった。紫色の菌糸は不気味に光っている。
施設長が顎で合図すると、ウージとタキシを抑えこんでいた研究員がウージの口を大きく開けさせた。
施設長は、すくったその紫色の菌糸をウージの口の中の舌の上にベットリと乗せた。
フクタは目を瞑って顔を背ける。周りの研究員達が羨ましそうな表情でウージを見ながら、再び、
「恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ! 恩恵を与えよ!」と合唱を始めた。
どうやらタキシの儀式はもう済んでしまっていたようだ。
施設長は大声を響かせる。
「この幸運な少年達には恩恵が与えられました。まだ恩恵を与えられていない者達も、この二人を妬まずに励みましょう!」
施設長は、今度はウージとタキシの二人にだけ聞こえる声で、
「これで二人の菌糸の成長は止まったよ。二人とも大変だったね。どうしてこんなに進行が遅れたのか謎だったが、進行が遅かったせいで一週間も牢に入れて置かなければならなかった。すまなかったね。計算では捉えた当日には儀式を始められるはずだったんだが……まぁ、終わりよければすべて良しだな、これで所長様もお喜びになるだろ、ハハハハハ」
フクタは親衛隊に捕まったまま、グッタリとうなだれている。
「さて、どうやらウージ君とタキシ君のお友達が遊びに来たようだよ。せっかくだ。君達から菌糸を分けてあげてはどうだろ? ……さぁ! お友達に菌糸を分けてあげなさい!」
施設長がそう言って、暫く二人の様子を見ている。しかし二人は動かなかった。まだ意識が残っているのだろうか?
「仕方がない……」
施設長がそう言うと、顔を二人に近づけた。すると施設長の耳と鼻から菌糸が伸びて来て、ウージとタキシの耳と鼻の中にその菌糸が侵入して行った。
フクタはうぇーと顔をしかめつつも、その様子から目が離せない。
「さあ、ウージ君とタキシ君、お友達に菌糸を分けてあげなさい」
今度の施設長の話し方は、やけにハッキリとゆっくりとした調子で二人に言い聞かせるように発せられた。少し間を置いて、施設長と二人を繋いでいた菌糸は施設長の耳と鼻に収まって行った。
静寂の中、やがて二人がゆっくりと立ち上がると、フクタの方へノロノロと近づいて来た。
「そうそう、それで良い。お友達とは仲良くしないとね。ハハハ」
その時、フクタを取り押さえていた親衛隊が捕まえていた手を離した。
「あぁあ~」
と言いながら、意識を失い、膝から崩れ落ちた。
「おいっ! お前ら、どうした? えっ! 一体何が起きているんだ!」
施設長が大広間を見渡すと、親衛隊以外の者達は既に意識を失って、倒れていた。
そして、他の親衛隊の者達も、次々と崩れ落ちて行った。
ウージとタキシも例外ではない。二人とも、
「あぁ~」
と言いながら崩れ落ちた。
「お、お前たち……恩恵菌糸を与えられし者には効かないじゃ……なかった……のか……」
と施設長は言い残しながら、意識を失い、膝から崩れ落ちて行った。
「な~に、恩恵菌糸を与えられし者達は進行が進んでいる分、効くのに時間がかかるってだけのことさ」
フクタが振り返ると、フクタの父親が入って来ていた。
「って、事だろ? フクタ?」
フクタはニッコリ笑いながらコックリと頷いて、フクタの父親に抱きついた。
「ははは、だいぶ心配させたようだな……しかし……」
フクタの父親が大広間を見渡しすと、フクタが投げ捨てたスプレー缶が部屋の隅に転がり、なおもプシューーとガスを噴き出していた。
「なるほど……自分が捕まりそうだと思って、噴射したままの缶をばら撒いておいたのか……パパも大ホールに噴射しっぱなしの缶を置いておいたよ。あと、各階の階段とエレベーターにも置いておいたから、これで、研究所ビル内の研究員達はみんな助かるはずだ……な?」
フクタはコクっと頷いて嬉しそうに笑った。

――

「な、何という事だ! あの糞ジジイの孫……遂に天敵菌糸を開発しおったか! 早い、早すぎるぞ!」
所長は、優秀な研究員数人とモニター室に映しだされたモニターパネルで事の顛末の全てを見ていた。
「どうするか……このままでは我々もやられるぞ……」
所長の周りの研究員たちは誰も口を開こうとしない。
「おいっ! 眼鏡! 先を越されたぞ! どうするんだ!」
所長は眼鏡の研究員の胸をど突いた。
ど突かれて、よろけた眼鏡の研究員がずれた眼鏡を人差し指で戻した。
「お前の計画では、あの二人を使って、あの糞ジジイの孫を手に入れて、研究に参加させるんじゃなかったのか? 先を越されたんだ。どうするんだ! って聞いてんだろ!」
所長は、また眼鏡の研究員の胸を前より強くドン! とど突いた。
「と、とにかく、あの天敵菌糸のスプレー缶をサンプルとして手に入れて、ここは逃げましょう」
眼鏡の研究員がど突かれてむせながら、やっとの事でそう言うと、他の研究員に防護マスクをつけさせ、一階の受付嬢の前に転がっているスプレー缶を回収して来るように命じた。
「そ、そんな物、拾って来て、どうするつもりだ。わ、私にかけるつもりじゃあるまいな!」
所長が少し怯えながら、眼鏡の研究員を睨みつけた。
「いえ、あの天敵菌糸への対策を立てなければなりませんので……サンプルとしては一本でも足りないくらいですので、そんな無駄遣いは……」
眼鏡の研究員は淡々と語りながら、ずれた眼鏡を人差し指であげた。
「そ……そうか……で、これからどうする?」
「とりあえずカフカ山の研究施設に逃げるのが一番かと……あそこは研究員の中でも我々しか知りませんから」
「そんな事はわかってる! どうやって、あの親子から逃げるつもりか! って聞いてるんだよ!」
所長は、また眼鏡の研究員の胸をど突いた。
「えぇ……それには、少し考えがあります……」
眼鏡の研究員はニヤリと笑うと、人差し指で眼鏡をあげた。

――

「そうだ! 所長は? フクタ! 所長がいないぞ。いつも儀式は所長がやってたから、てっきり、ここにいるものと思ってたんだが……」
フクタの父親は倒れている施設長に駆け寄り、体を揺すりながら、
「おい! 施設長! 所長はどうした? どこにいる?」
「う~ん、ウージ君は言葉遣いが悪いね。ちゃんと所長様と言いなさい~む~」
施設長は寝ぼけている。
「わかった! で、その所長様はどこに行ったんだ!」
「む~え~と……所長様は地下に行くと……」
「わかった、施設長! 後はゆっくり休んで下さいよ」
フクタのパパは、リュックのスプレー缶を確認すると、フクタに、
「所長だよ! 彼をどうにかしないと、決着が付かないんだ。フクタ! 知っていたか? あの所長、爺さんの助手だったらしい。爺さんの研究レポートを盗んだ犯人は、あの所長だったんだよ」
フクタは納得した様子でゆっくりと頷いた。
「じゃ、パパは行くぞ、黒幕を捕まえないと、また同じ事の繰り返しだからな」
そう言うとフクタの父親が走り出した。フクタもフクタの父親の後を追った。
二人はエレベータに乗り、地下一階のボタンを押した。
「フクタ、ここにパパが潜入して、あの恩恵菌糸のサンプルを手に入れたんだ。あのパンフレットに挟んで渡したの、よくわかってくれたね。天敵菌糸の開発に成功して本当に良かった。これでウージ君とタキシ君も助かるな」
フクタは、二人の事を考えて少し涙ぐんだ。
――本当に良かった……あの二人はもう大丈夫。目が覚めた頃にはすっかり有害菌糸の痕跡は消えているだろう。
エレベータのドアが開いた。
地下一階は、実験室になっていた。フクタの土蔵や地下室とは比べものにならない量の棚とシャーレが並んでいた。
「しまった、遅かった! どうやら、既に逃げられたらしい……」
研究員達は既に連絡を受けていたらしく、誰も残っていなかった。
「くっそー! どこに逃げたんた。肝心の所長と優秀な研究員達がごっそりいなくなっているぞ! これじゃ、元の木阿弥だ~~~フクタ! 追うぞ! 外に車が止めてある。とにかく外に出よう!」
フクタとフクタの父親がエレベータに乗り込んだ。一階に着きドアが開いた瞬間、そこには信じられない光景があった。
「手を上げろ! おかしな動きをしたら、すぐに射殺するからな! まずはその荷物を床に下ろせ! いいか! ゆっくりとだ。そうだ、そこの子も、その毒ガススプレー缶とベストを脱いで下に置きなさい!」
フクタたちは、大勢の警官達に銃を向けられて、包囲されていた。
「ど、どういう事ですか? この研究所は危険です。薬物投与の人体実験が行われていたんです。特に四階を調べて下さい!」
フクタの父親が手を上げながら、やっとの事で言うと、刑事が部下に、調べさせろ! と命令した。
「とにかく、お前ら親子が、研究所内に毒ガスを撒き散らしているという通報が入った。話は署でゆっくりと聞かせてもらおう。事が事だけに、おかしな動きをしたら本当に撃つからな! じっとしていろ!」
フクタの父親が両手をあげて顔を正面に向けたまま、
「しまった……嵌められた……」

――

タキシは長い眠りから目が覚めた。ふと、隣のベッドを見るとウージが体を起こして窓から外を見ていた。
「ねぇ、ウージ君、ここどこ?」
ウージはタキシの声に窓から目を離してタキシを見る。
「おお! タキシ! 気づいたか! お前、丸一日寝てたんだぞ! 心配したぞ、ちょ、ちょっと待て、お前が気づいたら知らせるように言われてるんだ」
ウージは慌ててベッドの横にある呼び出しスイッチを押した。
「えっ? なになに? どういうこと? そう言えば僕ら捉まってたよねぇ……あれ? そう、僕らはヤツラに捉まったんだよ。で、牢屋に入れられてて、その後、牢から出されたかと思ったら、最上階の部屋で儀式とかいうのが始まって、恩恵菌糸というのを与えられて、頭がボーとして…………あれっ? その後、覚えてないや、で、ここは研究所の施設?」
ウージはハーと少し長い溜息をついて、
「そっか、そっか、お前はそこまでだったな。その後、俺もその恩恵菌糸とやらと食らったんだけど、その前にあのガキが助けに来たんだよ。なんかスプレー缶をぶっ放してたな……プッ」
ウージは事件のことを思い出すと珍しくおかしそうに噴き出した。
「えっ? フクタ君が、僕らを助けに来たって? そ、そんな無茶な……じゃ、フクタ君も捉まったの?」
「そう、捕まっちまったんだ。でも警察にな……プッ……親父さんと一緒にな」
「えっ? 警察? 研究所じゃなくて?」
「ああ、警察の人から、そう聞いた。なんでもあのガキが研究所ビルに乱入してスプレー缶を噴射しまくって、みんなバタバタと失神して行ったって話だ。今、そのスプレー缶の中身を調べているらしいけどな」
その時、看護婦が駆け付けて来た。
「意識が戻ったのね。ちょっと待ってね。今先生が来るからね」
「えっ? 先生?」
先生と聞いて体が硬直したタキシを見て、ウージが、
「あっ! 違う、違う、ここは病院だよ、普通の病院なんだ。言い忘れてた。どうやら俺ら助かったらしいんだ。体に異常はないらしい。あと失神した人達もみんな無事なんだってさ……何かおかしいだろ?」
看護婦は二人のやり取りとキョトンとして見ていたが、やがて医者が来て検査が始まった。

「はい、詳しい検査はまた後でするけど、今のところ異常なしだね。すこぶる健康! 点滴も外してしまおう。少し意識が戻るのが遅かったから心配したけど、もう大丈夫だよ」
医者と看護婦が病室から出て行くと、ウージがタキシを覗きこむように、
「なっ! 不思議だろ! あの所長が得意になってしゃべってたの覚えてるか? あの話とだいぶ違うだろ! あのオッサンの話じゃ、俺ら研究所の人間は、みんな有害菌糸に侵されているって話だったよな。それが進行していたから、俺ら、だんだん苦しくなって意識が飛んでたって話だったろ」
「うん、それは覚えてる。あれっ? あの所長、フクタ君のこと知ってたんだよ。そう! フクタ君の存在は脅威だって言ってたんだ。なんでも結界菌糸ってのを作って、そのおかげで僕らの菌糸の進行が遅れていて、フクタ君の家や土蔵にも近づけなかったって……そうだ! フクタ君なら天敵菌糸も作っちゃうかもって! えーー! そういう事! フクタ君、作っちゃったって事? うん、それなら納得出来る。僕らや研究所の人の体から異常が見つからないっていうの。ねぇウージ君もそう思ってるんでしょ?」
「ああ、……としか考えられねぇよな……ったく……大したガキだよ。遂に完成させちまいやがったんだもんな……あのガキは……ずっと前から戦ってたんだな」
ウージはまた窓の外を見ながら話をしている。
その時、病室のドアをノックする音が聞こえた。二人が振り向くとフクタの父親が立っていた。
「えぇ……と……入っても良いかな?」
「あっ、はい、どうぞ、どうぞ」
慌ててタキシが返事をした。
フクタの父親は病室に入り、二人のベッドの前に立つと、いきなり深々と頭を下げた。
二人がキョトンとしていると、
「私とフクタもさっき警察からやっと解放されたんだ。今、来たら、ちょうどタキシ君の意識が戻ったというからね。とにかく謝りたくてね……すぐに帰るから」
「あれっ? フクタ君は?」
「ごめんね、二人にはとても言いづらいんだけど……会いたがらなくてね。先に帰らせたんだ。まあ、気持ちはわかるんだが……多分ずっと罪悪感を抱いていたんだろうからね……」
タキシが不思議そうに、
「どういう事……ですか?」
「フクタも初めて君らを見た時は気づかなかったらしい。でも、君らが使ったコップを調べて、君らが有害菌糸に感染している事を知ったらしい。実はね、君ら研究所の人達が感染していた有害菌糸はね……」
フクタの父親の話を遮ってウージが、
「爺さんが発見して、あの所長が盗んだって話だろ」
フクタの父親がびっくりして、
「えっ? どうして、それを!」
「捉まっていた時に、所長がペラペラ得意そうに話してたんですよ。べ、別にそれなら、悪いのはみんな所長だと思うけどね。その……だから、あんたらのせいじゃないってことですよ」
「いや、ありがとう。でも、そうでもないんだ。私達は十分にあの研究が危険なものだと知っていたんだ。詳しい内容はわからなかったけど、実は爺さんが自殺してね……」
部屋の空気がさらに重くなった。
「最初は、何でそんな悲観的な事をとも思ったんだけど、どうも今となっては秘密を守るために死んだんじゃないかと思ってるんだ。爺さんのレポートに書いてあったんだけど、有害菌糸は人間の脳内でネットワークを作るらしいんだ。それでネットワークが大きい宿主がより小さなネットワークの宿主に対して命令出来るようになる」
「ああ、それで進行が進んでいる人が支配しているって事になるんだ」
「そう、恐らく所長はその時、菌糸の成長が進んでいて、爺さんに菌糸を植え付けさえすれば、何らかの命令が出来る状態だったんじゃないかと思うんだ」
「爺さんは、それを恐れて先に死んじまったと……」
「たぶん、そうじゃないかと……あくまでも想像だけど。とにかく私はあの研究レポートを処分してしまおうと思っていたんだ。……でもフクタが物凄く興味を示してね……あの子は……君達も知ってると思うけど、子供の頃からあまり人に興味を示さなくてね……小さな頃から、虫とかそういうものばかりに興味を示してね……それであのレポートも、あの子にとっては玩具だったのさ。全部読んだら、ちゃんと処分するからって聞かなくてね……親バカも良いところさ……あの時、無理矢理にでも処分していれば……研究員の人達も……そ、その……き、君達のご両親も……」
フクタの父親は小刻みに震えながらしゃがみ込んで土下座をした。
「お、おじさん、やめて下さいよ。そんな事されたって、困るよ」
「いや、あの子の分も謝らせてくれ、本当は研究員の遺族の方みんなに謝りたいが……」
「と、とにかく、もう今日は帰って下さいよ。タキシのヤツも本当に、さっき目が覚めたばかりなんで。色々と刺激が強過ぎると思うんで。なぁ、わーったから、わーったから、今日のところは帰って下さいよ」
フクタの父親は身を引きずるように起こし、重たい足取りで病室の入り口で振り返るとまた深々と一礼して去って行った。
暫く病室は静まり返り、ウージはまた窓の外を見ている。
暫くしてからタキシが、
「ねぇ……フクタ君、僕のお母さんやウージ君のお父さんが死んじゃった事、どう思ってたんだろうね……」
「たぶん……自分のせいだと思ってたんだろうな」
「なんか悲しいね……僕、悲しいよ」
タキシがいつものように泣き始めたが、ウージは黙って泣かせることにした。

――

フクタの父親がウージとタキシの退院の日に車で迎えに来ている。
「ウージ君とタキシ君の養護施設が決まったよ。二人とも同じところで良かったね。研究所関係者のご子息達でご両親が亡くなられてしまった子達が集められたんだそうだ。暫くはそこでリハビリが行われて、回復したら、また別の施設に移るようだよ。それにこの近くの中学にちゃんと転入出来るそうだから」
ウージは、
「そうですか、いろいろとありがとうございました」
とゆっくりと頭を下げた。それを見て慌ててタキシも頭を下げる。
「二人とも、車で施設まで送って行くよ。でも二人はお別れを言わないといけない人達がたくさんいるよね」
ウージとタキシは驚いた顔でお互いを見ると、慌てたように、はい、と答え、少し挨拶に時間がかかるけど良いかと聞いた。
「そうだね。でも、きっと、みんな寂しがって引き止めるだろうから、また、今度ゆっくり挨拶に来るからって、ちゃんと先方に言うんだよ」
車はフクタの家の近所に来て止まった。
「じゃ、私はここで待っているから、行ってらっしゃい」
とフクタの父親が言うと、ウージとタキシが車から降りて、歩いて行った。
二人はフクタの家から三件となりの老夫婦が住んでいる家に着くと、呼び鈴を鳴らした。
中から老婆が出て来て、
「あれっ? 今日は月曜だよ。あれっ? アタシの勘違いかねぇ、ボケちゃってるからねぇ、ま、ささ、上がって、上がって」
老婆はやけに親しそうに二人を家にあげようとした。
「いえ、今日は月曜で合ってます。実は、俺達、施設に入る事になったんで、今日はご挨拶に伺ったんです。今までたくさんご馳走になってありがとうございました」
二人は揃って頭を下げた。
「えっ! えぇー! ちょっと大変だよ、お爺さ~ん! ウージ君とタキシ君がもう来ないってさぁ! ちょっと、そんな上がっておくれよ。何も用意してなかったから、これから作るよ。ちょっと待っててね、ちょっとお爺さん……」
老婆は家の奥で説明しているようだった。暫くすると老人が出てきた。
「そーか、そーか施設に入るか。よーわからんが、何か上手く行ったんだな。うん。お前らの顔を見たらわかる。辛かったなぁ……」
老人は出てきたそばからもう泣いている。
「いやいや、礼を言わにゃならんのはワシらの方なんだよ。お前ら二人が話相手になってくれて、毎週火曜日、どんなに楽しかったか……また、いつでも来なさい、婆さんも待ってるから」
「本当だよアタシは待ってるからね。いつでも遊びに来ておくれよ」
そんなやり取りが、この後、6件も続いた。中には先週来なかったから心配していたという家もあり、泣きつかれてなかなか放してくれずにウージが頭をかく場面もあったが、どうにか迎えの車が待っていると言い訳して開放してもらった。
フクタがたまに、この二人はどこで食事をしているのだろう? と不思議に思っていたが、何の事はない、近所の老夫婦の話し相手になりながら、ちゃっかり食事ありつき、ご丁寧に翌朝のごはんのおにぎりまでもらっていたのだ。
タキシは歩きながら頭をかきながら、
「ウージ君、なんか複雑だよね。前に勝手にあがり込んで、盗んだりしてた家の人達がこんなに親切にしてくれるなんてね。それに次々と紹介してくれてさ。でも、ウージ君ってああいう人達の話を聞くのが上手って意外だったなぁ~」
「ば、バカ! 聞いてねえよ。ただ相槌打ってるだけだよ」
ウージは照れているが、まんざらでもない様子だ。
しかし、最後の家の七件目の家で意外な事を聞き、二人は驚いた。
「フクタ君のパパがね、みんなの家に回って、二人には何か事情があるようだし、フクタの友達だから絶対に信用出来るからって、どうか警察には連絡しないでくれってお願いして回ってくれてたんだよ。ちゃんと住むところはウチが提供するからって。そのうち、事情が解決するまで、お願いしますって。これさ、フクタ君のパパには口止めされてたんだけど、その事情とやらが解決したっていうんなら、言っといた方が良いよね」
二人は深々とお礼して、フクタの父親の車の中に戻って来た。
「おっ! 終わったね。やっぱり、相当かかったね。みんな寂しがったろう。でも、施設はすぐそこなんだ。会おうと思えばすぐに会えるんだから、たまには会いに行ってあげてよ」
フクタの父が運転する車は二人を乗せて養護施設に向かって走り始めた。
暫く黙っていたが、ウージが絞りだすように、
「あ、あの……おじさん、色々、気を遣ってもらってたようで……ありがとうございました。俺ら、自分らだけで生きて来たつもりだったけど、と、とんだ思い上がりでした。ど、どーも、ありがとうございました」
タキシも慌てて、ありがとうございました、と続くと、
「あっ! 誰だぁ? 言っちゃった人がいるんだ。参ったなぁ……」
フクタの父親は気まずそうだった。
タキシはこういう気まずい時に場をぶち破る力を持っていると、ウージは常々思っている。今回も、そのタキシの力がいかんなく発揮された。
「おじさん、研究所に潜入してたんですよね。なんか潜入捜査官みたいで格好良いですよ」
フクタの父親は、一瞬面食らった表情をしたが、
「うん、どうしても研究所の内部情報が欲しくてね。それに潜入していた方がフクタの友達が危険な目に合っても助けてあげられるしね」
と言って、ウージの方を見て、手で自分の口と鼻を覆い目だけ出してウィンクした。
「あぁ~! そうか、この声! 俺が潜入した時に背後から俺を脅かした声だ! あぁ~! それと、葬儀場で縛られていた俺を助けてくれた人だぁ!」
ウージは素っ頓狂な声をあげて、唖然とした表情でフクタの父親を見ていたが、やがて……
「ど、どーも、そ、その、要するに……お世話になりっぱなしだったんすね……」
と頭をかいて見せたので、思わずフクタの父親も笑ってしまった。
タキシのお陰で、養護施設に向かう車中の雰囲気が一気に和らいだ。

――

フクタは先生に次を読むように言われると、ズズーーと椅子を後に引きずりながら席を立ち、小さな声でボソボソと教科書を読み始めた。
「もう少し大きな声で、みんなに聞こえませんよ」
先生が注意したが、フクタの声のトーンに変化はない。
その時、プシューと音がして、フクタの髪が舞った。
フクタの後の席の子供がスプレー缶でフクタの後頭部めがけて噴射したのだ。
これで教室は大爆笑となった。
「こ、こら、それをよこしなさい!」
先生は慌てて、フクタの後の席の子供からスプレー缶を取り上げた。
「君達! 学校にこういうものを持ち込んじゃいけませんって何度も注意してるだろ。いい加減にしないと、朝から校門で持ち物検査することになるぞ!」
「先生! どこかのビルに持ち込むのは良いんですかぁ!」
と誰かが言うと、教室がまた爆笑に包まれた。
先生は、チラッとフクタを見たが、特に変わった様子はなかった。むしろ無表情というより少し嬉しそうに見えたのは意外で不気味に感じた。
「はい、もちろん、それはいけない事だし、そういう事をした人は警察でたっぷりと怒られました。それで十分に反省もしていると思います。だから、君達もそういうことをやってはいけません」
授業が終わり、フクタは根っこの生えた椅子から立ち上がり、帰宅しようと廊下を歩いていると、至る所からプシュー、プシューとスプレー缶の歓迎を受けた。フクタは乱れた髪をいちいち戻すのも面倒なので、乱れ放題のまま下駄箱へ向かう。
「おい! フクタ菌! お前はきょうからフクタンだ! フクタン、フクタン、フクタン、プシュー、ハハハ」
しかし、あまりにもフクタに反応がないので、つまらなくなった子供達は、今度はお互いにプシュープシューと吹きかけあって、ギャハハハと走り回って遊んでいる。
そこへ先生がやって来て、スプレー缶を没収する。先生はチラっとフクタを見て、内心、流行らさせた張本人を恨むような気分になった。
フクタはいつものように下校途中で気になった虫を見つけては何分も観察して、普通に歩けば十分くらいの道のりを一時間かけて帰って来る。途中でフクタを見つけた他のクラスの生徒まで、フクタの頭にスプレーを噴射して逃げて行ったりするが、フクタにそれを気にする様子はなかった。
家に着くと、フクタの母親が、
「フクタぁ! 学校、大丈夫? 何にもなかった?」
としつこく聞いた。
フクタの母は警察に呼び出された時、どこの国の事件だろうと、まったく事態が飲み込めなかった。
警察に着くと、取り調べ室のような場所に、フクタと暫く帰って来ていなかった夫が椅子に座って、尋問を受けていた。
事の成り行きを聞けば聞くほど、理解に苦しんだ。この親子は一体、何をやっているのだろう? 悪ふざけしているようには見えなかった。今まで理解していると思っていた存在が、まったく異質に見えることほど恐ろしい事はない。
元々、フクタに関してはわからない事は多い。それでも、本当は優しい子である事は知っているし、とんでもなく頭が良い事も知っている。ただちょっと変わっているだけ、それがフクタの母の印象だった。でも、本当に自分はこの子の事を理解しているのだろうか? と不安になる。
夫はかれこれ二週間も帰って来ていなかった。しかし、この警察沙汰をきっかけに普通に帰って来るようになった。浮気だと思って、問いただしたが、笑いながらそれはないと言う。その言い方が、女の直感で、本当にそれはないのだと思わせた。
しかし、それなら何故? どうして子供と一緒に、自分が入っていた研究所? だか何だか知らないが、そこに子供を連れて来て、スプレー缶を噴射? 中身は空だったらしいので、特に危険な事をしたわけではない、とイタズラとして扱われ釈放された。
しかし、テレビや新聞、雑誌などのメディアは興味本位で報じていた。フクタ達のスプレー噴射事件をきっかけに、研究所内で行われていた人体実験が明らかになったのだった。
様々な薬物投与が行われていたようだった。報道はフクタ達が義憤にかられて事件を起こしたのではないか? という憶測が伝えられていたが、警察は別の事件と見ていた。
研究所では、所長と優秀な研究員の何人かが行方不明らしい。連日のように、テレビでは、研究所の人間がレポーターの質問に答えていた。中でも最も登場頻度が高い男は、元々、研究所ビル内の養護施設を任されていたという施設長で、事件後から所長になっている男だ。
「私達は、本当に人体実験なんて知らなかったんです。薬物が投与がされていたなんて、何て酷い話でしょう! 全部、全部、あの男、所長や所長と一緒に行方不明になっている研究員達がやっていた事です。残された私達は本当に何も知らなかったんです。どうか、どうか、みなさん信じて下さい!」
演技にしては鬼気迫っている。
フクタの母は、興味本位の報道のせいで暫くの間、フクタを学校まで送り迎えしなけばならなかった。抗議やイタズラ電話も後を立たないし、研究所の人間だろうか? 気味の悪い、赤字で何が書いてあるのかわからない内容の紙を家の前に貼って行く。いずれこの事態が収まる事があるのだろうか? フクタの母親はすっかり参っていた。
しかし、そんな事はどうでも良い。一番心配なのは、学校でのフクタの境遇だ。フクタは本当に虐められていないのだろうか? いくら本人に問い質しても、何もないと首を振るだけだった。先生に電話で聞くべきだろうか? 一度電話してみたが、迷惑そうな対応に頭が来てしまった。学校も対応に追われて困っていると言うばかりで、一ヶ月ほど休学させてはどうか? と言って来る始末……それが出来るなら、とうの昔にそうしている。
当の本人が行くと言って聞かないのだ。今日も何事もなかったように帰って来る。事件前と後でまったく態度が変わらない。
しかし、フクタの母親にとっては、驚くべき変化が一つあった。二年前から、学校から帰って来たら、まっすぐに地下室や土蔵に篭っていたのがピタリと行かなくなってしまったのだ。一度、
「シャーレはもう見に行かなくても良いの?」
と聞いてみたが、コクっと頷いたきりだった。
今は学校から帰って来ると、テレビの前に座り込んで、ザッピングしながら、オヤツを食べている。
多分、こちらの方が普通の子供なのだろうが、フクタの母にはかえって不気味だった。

――

「あの糞ジジイの孫の天敵菌糸の方は、どうなっておる?」
所長が眼鏡の研究員を問いただしている。
「はっ、まだ、調べたばかりで、詳しい事はわかりませんが、この発想は素晴らしい! 我々に飛散能力を与える研究に光が差し込んで来ました!」
「何だと? もう、かれこれ、その研究を初めて二年以上になるのに、何の進展もなかったではないか? なのに、あの天敵菌糸のサンプルを手に入れてから、いきなり展望が開けて来ただと? ……ふーむ……あの糞ジジイの孫は忌々しいが、皮肉なことに、我々に逆転のチャンスを与えてくれたというわけだ。ハハハ……」
眼鏡の研究員は、愉快そうに大笑いする所長の顔をが見ながら、言いづらそうに、
「……しかし……あの~所長……このカフカ山の施設は以前の研究所ビルの施設に比べると、だいぶ手狭でして……その研究員も数人しか、いませんし……そんなに楽観できる状況にはないかと……」
所長は眼鏡の研究員をギリッと睨みつけると、
「やかましいわい! お前らの研究がトロトロしてやがったから、こんな事態になったんだろうが!」
はっ! と眼鏡の研究員たちは萎縮した。
「だが、あと数日したら、数十人くらいなら、すぐに集まって来るだろうて……あの時、あの研究所ビルの中におらなんだ者たちがまだおる」
「し、しかし……このカフカ山の施設の場所は、他の研究員たちには秘密だったのでは?」
眼鏡の研究員たちが怪訝そうに所長を見た。
「ハ、ハ、ハ……お前たちのように、元々、この研究が好きで、逃げようとは露ほども思わなんだ者たちは知らなんだか、ハハハ……、実はな、有害菌糸の進行が進むと、暫くワシに会わなんだら、無性に寂しくなり、ワシに会いたくなるのだ! そして、非常時にはこの施設に集まるように教えてあるのだ。普段は忘れているがな……この施設は、脱退しようとする者を再教育する施設だったのだ。ハ、ハ、ハ……」
所長は愉快そうに大笑いしている。それでも眼鏡の研究員は、納得しない様子で、
「なるほど、数十人いれば、研究の方は進むでしょうが、組織の方は作り直しになりますね……しかも、警察の目がありますから、以前のような勧誘活動はもう出来ないでしょう……」
所長は、ギリッと眼鏡の研究員を睨みつけ、胸をドン! と突き飛ばした。
「おい! 眼鏡! さっき、お前は、我々に飛散能力がつくって言っただろうが! それを使って何か考えろ! この! 研究バカが! お前もあの忌々しい爺と一緒か? 研究、研究、研究……そればかりで、その先も考えんか!」
眼鏡の研究員が暫く考えていたが、何か閃いた様子で、
「風です! それにこの山は杉林ですから……これを使って春一番で空中にばら撒くというのはどうでしょう?」
「ふむ……ふむ……そいつは……豪快で良い! 良いぞ! 眼鏡! でかした! いや、優秀な研究員よ! ふむ……それは良い。風に乗ってブワーッと広がるのか……あ~想像するだけでワクワクするなあ! して、天敵菌糸の解明はどれくらいで出来る?」
「はっ、半年あれば、春までに間に合わせましょう」
眼鏡の研究員はニヤリと笑い、ズレた眼鏡を人差し指で上げた。

――

フクタの父親の職場での状況はかなり深刻なものになっていた。首にならなかっただけマシだったが、誰一人、好んで話かけて来る者はいなかった。みんな障らぬ神に祟りなしという扱いだ。
フクタの父親を研究所に勧誘した上司もあの事件以来、行方不明になっていた。
フクタの父親を出張扱いにしてくれているはずだったが、実際にはすべて有給休暇扱いにされていた。しばらくは大人しく、まじめに出勤して、仕事をこなしていかなければならない。
それにしても、所長と数人の研究員を逃してしまった。彼らの有害菌糸を完全に消滅出来ていたら、こんな苦境に陥っていても、気分は朗らかだったに違いない。しかし、肝心な人物を取り逃してしまった事で、気は重くなるばかりだった。警察の目がある今、彼らも以前のような勧誘活動は出来ないだろう……
それなら、問題は解決したと言えるのだろうか? しかし、今度はどんな手を使って来るのか皆目検討がつかなかった。
以前、地下室から研究レポートが盗まれた時は、何かと間違えて盗んで行ったのではないか? 盗んだとしても、中身については理解出来ないのではないか? という楽観があった。
しかし、今回の件で、最悪の人間に盗まれていた事がわかってしまった。
きっと彼らが、このまま大人しくしているわけがない。何とかして止めなければ……
しかし、どうやらまだ警察に監視されているような気がするし、職場の雰囲気も、今度、何か落ち度があったら、首にしようと手ぐすねを引いて待っている感があるので、当分は身動きが取れないだろう。
フクタの事も心配だ。ママの話では、以前と違って、リビングでずっと腑抜けたようにテレビを見ているという。さすがに、あの事件の興味本位な報道になると、すぐにチャンネルを変えるらしいが、何よりも心配なのが、どんなにウージ君とタキシ君に会いに行こうと誘っても、決して会おうとしない事だ。元々、好きではなかったのだろうか? 責任感ゆえに仕方なく付き合っていたのだろうか? とてもそんな風には見えなかった。やっぱり、彼らの顔を見ると、申し訳ないという気持ちが高まり、辛くなるのだろう。
自分にしたって、月に数回だが、休日になると、彼らの様子を見に行っているが、どうしても、涙が流れそうになってしまう。彼らは何事もなかったように接してくれるが、それがかえって辛くなる事がある。自分がウージとタキシに会いに行くのも、なるべくフクタの近況を伝えて、本当に心が離れないようにして欲しいという思いがあった。
しかし、彼らにしても、自分を快く迎えてはくれるものの、フクタに会いに来るという事はなかった。行く度に、たまには遊びに来るように言うのだが、その度に、そのうち……という答えが返ってくるだけであった。
ところで、あの行方不明になった上司はどこに消えたのだろう? 研究所ビルにはいなかったという事だ。優秀な男だった。彼がたまにする、人差し指で眼鏡を上げる仕草を懐かしく思い出す……

――

「なるほど……そうか、でかした。さすがに事件から三ヶ月も経つと、警察の警戒もゆるやかになって来たな」
研究所ビルを偵察して来た研究員が所長に報告していた。
「ところで、どうだ! 天敵菌糸の方はどうなっている?」
所長が眼鏡の研究員に実験の進捗状況を聞く。
「はい、順調です。所長のおっしゃっていた通り、研究員が集まって来たおかげで、順調に実験が進んでいます。この調子なら春までには間に合うと思います」
「そうか、そうか、今、研究員からの報告では、研究所ビルの一階の保管室に保管されている同胞も無事のようだ。彼らに、その……飛ぶ……力は与えられるんだな?」
眼鏡の研究員は自分に話しかけられたのに気づかず、一心不乱に研究データを解析していた。
「おい、眼鏡!」
ドン! と所長が彼の肩を小突いた。
「えっ? あっ! 何でしょうか? すみません」
「だから、同胞にその飛ぶ力はつくのか? って聞いてるんだ」
「飛ぶ? あっ、飛散能力のことですね。はい、大丈夫です。今、アタッチ部分がはずせるかどうかの実験中でして……」
「そうか、そうか、飛ぶんだな? わかった、飛ばせるようになるのなら良い。お前は、もっと、簡潔に質問に答えろ! まったく、そういう所はあの糞ジジイにそっくりだわ。ハハハ……待っておれよ! 同胞よ、もう少し、警戒が薄くなったら、無事に救出してやるからな。それに、あの糞ジジイの忌々しい孫も誘い出してくれるわ。ハハハ……」

――

フクタにとって今まで学校は休憩の場だった。学校以外の時間、天敵菌糸の研究に没頭していた為、唯一、頭を休める場所だった。たまに面倒な子供がちょっかいを出してくる事があっても、それすら息抜きに感じていた。かと言って、相手にする元気は残っていなかった。
天敵菌糸が完成した事で、ようやく肩の荷を降ろした気分になっていたが、父の言うとおり、所長と数人の研究員を取り逃してしまった事で、抜本的な解決には至っていない事は明白だった。しかしフクタにはどうする事も出来なかった。
それよりも、フクタにとって気がかりなのは、ウージとタキシの事だった。父の話では元気にやっているらしい。
元々は自分の好奇心が原因で、この事件が始まった事も父の口から伝えてくれたらしい。何度も自分の口から謝罪したいと思ったが、それを言うと、余命いくばくもない事を伝えなければいけない状況にあった。まだ、あの時は、天敵菌糸が完成していなかったからだ。
きっと、自分の謝罪など聞いても、ウージなら、泣いている暇があったら、早く天敵菌糸を作ってくれと言っただろうし、タキシはきっと怖がって泣いて縋って来ただろうか?
どちらにせよ、あの時、自分がやるべき事は決まっていた。そして、二人は助かった。その他の研究員達も助かった。
しかし、それまでに亡くなった人達は返っては来ない。
今まで、自分のやるべき事に夢中で、なるべく彼らの事を考えないようにして来たが、天敵菌糸が完成してからというもの、その事が頭から離れないでいた。
今までは後悔の気持ちを原動力に変えて前に突き進んで来たが、いまや悪夢の世界に取り殺されそうになっていた。テレビを見ても何も頭に入って来ないが、テレビをザッピングしながら、オヤツを食べている時だけが、ウージとタキシとの楽しかった日々を思い出させてくれて、悪夢を振り払う事が出来た。彼らとの思い出だけが、自分を支えてくれている。
また彼らに会って、彼らから直接、憎悪の感情をぶつけられでもしたら、とても耐えられそうになかった。たまに父は、彼らは怒っていない様子だから、会いに行ってみては? と言われるが、どの面を下げて会いに行けば良いのだろう。実際、あれから彼らは一度も、ここへ来ようとしないではないか。彼らが優しいのは十分に知っている。決して、罵倒したりしないだろう。
でも、だからと言って、彼らだって、簡単に自分を許せるはずもない。彼らは完治した、もう研究所の連中に追われる事もない。父から聞いた様子では元気にやっているようだ。それで良いではないか。自分と会って彼らに何の得がある?
確かに事件の前は自分に好意を持ってくれているようだった。でも、それは何も知らなかったからだ。
自分にはまだ、やらなければならない事がある。父と一緒に所長たちを見つけ出して、決着をつけなけならない。二人を巻き込むわけにはいかない。

* * *

ウージとタキシが新しい施設で暮し始めて半年が過ぎた頃、ウージに警察の人が会いに来ていると、施設の職員から知らされた。散々、取り調べを受けたあの時期から、もう半年になる。
――今さら何だろう?
と思いつつ、施設の面会室に入ると、椅子に座っていた男が席を立ち、警察手帳のようなものを出した。軽く挨拶をしてから二人は席に座った。
「え……と、突然、呼び出して済まなかったね。ちょっとウージ君に聞きたい事があってね」
「はい、何ですか?」
「君、以前、湿った原木について話してくれたの覚えているかな?」
「ああ……誰も信じてくれなかったですけどね」
「え、まあ……そう、だったね……その、ちょっと奇抜だからね。その死んだ人間が湿った原木になったなんて話は……そのちょっと、ね……」
「別に良いです。そのおかげで少年院に行かなくて済んでるんですから。ただ俺は本当に自分が見た事、やった事を話しただけです」
「そう……うん……まあ、君もいろいろと辛かったからね……我々もお父さんの行方は追っているんだけど、依然としてまだ掴めていないんだ。その事については、努力していると言うしかないんだ」
「はぁ……」
ウージは既に死んでいると言いたかったが、それを言うと、また例の湿った原木の話になる。
「その……ち、父の事はいいです。よ、要件は何ですか?」
「ああ! そう! 要件ね……」
刑事は慌てて手帳を取り出して、
「実は例の研究所から、その……湿った原木が大量に、いや全て盗まれてね。その、君が見たと言う研究所ビルの一階の保管室にあったヤツ、全部ね、ゴッソリやられました。その何本くらいあったか覚えているかな?」
「えっ! あれって、あのままずっと、あそこにあったんですか? えっと、多分、百本以上はあったと思いますけど……」
ウージはあの保管室の様子を思い出してゾッとした。あれが全て人間の成れの果てだったのだ。
もしかしたら、あの中に自分の父の湿った原木も保管されていたのかもしれない。以前、あの研究所ビルに侵入した時、一人を殺って、あの保管室に隠した事があった。今考えると、どうしてすぐに発見されずに逃げおおせたのか理解できる。あのまま湿った原木に変化した事で、他のものと区別がつかなくなってしまったのだ。
刑事はウージの青ざめた顔には気づかず、ウージが言った事をメモしていた。
「はい、研究員の人の話と同じですね。ああ、あの研究所もほとんどの人がやめちゃってね、もう何人か残っているだけだよ。それで、管理が手薄になっていたんだね。ところで、誰が盗んだのか? あんな物を何に使おうとしているのか? なんだけど何か心当たりないかなあ? 全くの思い付きで良いんだけど?」
――はて?
そう言えば、考えた事もなかった。アイツら――いや所長は何であんな物を後生大事に保管していたんだろ? 大事なものだったって事だよな。しかも今になって盗みに来ただと? 半年もどこかに潜伏していて、わざわざ危険を冒してしてまで盗みに来るようなものか?
「いえ、その……本当にまったく心当たりとか浮かばないです。あんなのただの死体ですよ」
ウージはキッパリとした口調で言ったのを、
「し、死体ね……」
と刑事は苦笑いしながら、あとは礼を言って帰って行った。

ウージが部屋に戻って来ると、タキシが首を長くして待っていた。
「警察の人、何だって?」
ここの生活にもすっかりと慣れて、丁度刺激を求めているといった状態だ。こいつは人一倍怖がりの癖に……
ウージが聞かれた事を話すと、
「へーー、不思議な話だね。どうして今さら……僕、なんだか何か悪い予感しかしないよ……ねぇ、ウージ君、この際だからさ……」
タキシは言いにくそうに一瞬、ウージを見てから一気に言った。
「フクタ君に相談してみようよ」
ウージは言うと思ったよ、と言わんばかりに露骨に渋い顔をした。
「だってさ! あれから一度も会ってないんだよ。ウージ君がこっちから行くのは、よそうって言うからさぁ……その……僕はずっと会いたかったんだよ。ちゃんと治してくれた事のお礼とか言いたかったんだよ。それに僕ら、ちっとも恨んでないよって。なのにウージ君がアイツは元々、人間には興味がないだの、行ったって辛い思いをさせるだけだって、言うから、フクタ君が会いに来てくれるの待ってたんじゃないかぁ! なのにもう半年だよ? 半年も何にも言って来ないんだよ。きっと僕らがお礼を言わないから怒ってるんだよ」
タキシにはしては珍しく鼻息を荒くして一気にまくしたてた。コイツはいつも食う事ばかり考えて、フクタの事なんて忘れたような顔をしていたくせに……
「アイツの親父が月に二回も会いに来てるんだから良いじゃねえか。それにアイツもシャーレの睨めっこもヤメて、元気に学校に行ってるそうじゃねえか。何も心配する事なんてねぇんだよ。それになぁ……加害者だってきつい時だってあるんだぞ……」
ウージの語尾に力がなかった。
タキシは毎晩のようにうなされているウージを知っていたので、それ以上何も言えなくなってしまった。
半年前まで、自分達を捕まえに来た研究員達が人型の機械のような印象しかなく、悪の手先を壊しているという感覚しかなかったが、自分達も誰かに殴られていたら、ああなっていたのだと思うと恐ろしくて、たまらなくなった。それに彼らにも家族がちゃんといた。家族はなおも行方不明者として捜索願いを出しているらしい。きっと彼らの成れの果てが保管室に置かれていたなんて知る由もないのだ。

――

翌朝、ウージとタキシはフクタの家の前に立っていた。
タキシは何が何だかわからずにそこに立っている。当日になってウージに叩き起こされ、やはりフクタに相談に行くと言い出したのだ。
ウージが呼び鈴を押すとフクタの母が出て、一瞬驚いたが心良く二人をリビングに通してくれた。
が……フクタはいない。
お茶を出され、どうでも良い世間話をしていると、いつの間にか三十分も経過していた。フクタの母親が時計を見ながら、すまなそうに
「ごめんなさいね。待ってたら、そのうち来ると思ってたんだけど、やっぱり、あの子、一度決めると頑固なのよねぇ……あの……フクタなんだけど、お二人が来た事を伝えたら、血相変えて会わないって土蔵に引っ込んじゃったのぉ~ホホホ」
フクタの母は力なく笑っている。
「あの……じゃ、ちょっと土蔵の所まで行っても良いですか?」
「えっ? ああ! そうしてくれる? ごめんなさいねぇ。で、でも出て来なくても怒らないでね。ちょっとあの子、変に頑固だからホホホ」
二人は、では、ちょっと失礼しますと言って、リビングの窓から外に出て言った。二人が土蔵の前に立つと、二人とも懐かしい気持ちで一杯になった。約一ヶ月もの間、ここで生活していたのだ。
――あれから、もう半年も経つのか、ちっとも変わってない。あの頃は、いつまでこんな生活を続けなくてはならないのだろうと不安で一杯だったが……
「ねぇ! フクタ君、開けてよ! タキシだよ。ねえってば、僕らは、ちっとも怒ってなんかないよ。お礼が言いたいんだよ。ありがとう! 僕ら元気だよう」
ウージはこの手の事はタキシに任せたと言わんばかりに土蔵の入り口の扉に背中をくっつけたまま座り込んだ。
「もうーウージ君も何か言ってよ! ねぇフクタ君ってばさあ。僕らの友情は永遠だろ? 僕はそう思ってるよ!」
ウージはこういう事を照れずに言えるタキシの事を少し尊敬している。ウージもいろんなヤツに会って来たつもりだが、こんな事を言って嘘臭くない奴にはついぞ会った事がない。ウージも心の中でタキシを応援していた。
「フクタ君、僕らずっと、ず~っとず~~~っと待ってたんだよーフクタ君が僕らに会いに来るのず~~~っと待ってたんだよーー実の事を言うと、僕、フクタ君がマリモちゃんの事を独り占めするために僕らを売ったんじゃないか? って暫く怒ってたんだけど、誤解だって知って後悔してるんだ。だから謝るから出てきてくれよー」
――ったく! コイツは今さら何言ってんだか……
とその時、ウージの背中の扉の向こうで、クスっと笑った声が聞こえた。
――いる!
扉の向こうで自分と同じように扉に背中をつけて座って聞いているのだ。
――でかしたタキシ!
「おい! ガキぃ! よ、よく聞け! お前が本当に責任感じてるなら、出てこい! 良いか? まだ終わってねぇんだ! いや、今、何かが起きようとしてるんだ。俺らはまだお前に言ってなかった事がある。あのなあ! 俺はあの菌糸に侵されてた連中をな! 何人も殺してるんだ! この手でな! お前からしたら許せないだろうな! 何てったってお前はヤツラや俺らを助けるために研究していたんだからな。でもなあ、だから、お前は死んだアイツらが、どうなるのか、知らないだろ? 良いか? ここからが大事ぞ! よく聞けよ! アイツらが死んだらな、湿った原木になるんだ。そうだなぁ……高さは子供の大きさくらいで、太さは直径二十センチくらいかなあ? ぶん殴るとな首がポキッてあっけなく折れてな、シューシューって白い煙みたいなものを出しながらなあ、そのうち溶けて、湿った原木になるんだ! 良いか? その湿った原木が、あの研究所ビルの中に百体以上も保管されていたんだ。たぶんその中に俺の親父や俺が殺ったヤツらもいたんだと思う。それでなあ! ここからが大事な話だ。それが一昨日、盗まれた! きっと所長の仕業だよなあ! まだ捕まってないだろ! まず犯人はアイツだと見て間違いないんじゃないか? あの所長、研究に関しては、お前の足元にも及ばないけど、泥棒は得意だったもんな! ハハッ……どうだ? これを聞いて、あの所長の狙いがわからねぇか? 情けねえ話だけど、俺らにはさっぱりわからねえ……死体を盗み出して今さら埋葬か? あの所長はそんなタマじゃねぇだろう? 俺もタキシも嫌な予感しかしねぇんだ……話はそれだけだ。じゃ俺らは帰るぜ」
ウージは土蔵の扉から立ち上がった。
「えっ! ウージ君、もう帰るの? 今の話、ちゃんと聞いてなかったかもしれないじゃないか。土蔵の二階で布団被って泣いてるかもしれないんだよ?」
「聞いてたさ。一応、伝えなきゃいけない事は伝えた。さ、帰ろう」
ウージがタキシの背中を押して、行きかけた時、背中の方で、ガチャっと扉が開く音が聞こえた。
二人が振り返るとドアを少し開けて、フクタが顔を覗かせている。
「フクタ君、久しぶりー! やー会いたかったよー」
タキシが大喜びで扉からフクタを引きずり出して、抱きついて持ち上げている。身長差があり過ぎて親子のように見える。
が……しかし……フクタの顔は懐かしがって喜んでいるといった表情ではなく顔面蒼白といって良かった。しばらく大はしゃぎだったタキシもさすがに気がついて、
「えっ? フクタ君? どうしたの? もしかして、もう、わかっちゃったの?」
フクタはコクっと頷いた後、大きく首を振って、ブツブツと小さな声でしかも相当な早口で何か念仏のように話し続けて話が終わると、ガクッとうなだれた。
しかし、今度はフクタの話を聞いていたタキシが青ざめる番だった。
「おい! タキシ! 何て言ったぁ? おい! 何て言ってるんだよ?」
「そ、そのつまりね……えっと、えっと、バカバカバカって散々、自分のこと攻めてね、いやフクタ君、そんな事ないよ」
「いいから続けろ!」
「あっ、うん、その湿った原木が菌糸の本体だってさ! で、この春先にわざわざ盗んだって事はスギ花粉と一緒にばら撒くつもりじゃないか? って……ちなみに……フクタ君が開発した天敵菌糸の空中を飛ぶ能力が応用されるに違いないって!」
ウージも顔面蒼白になるのにそう時間はかからかった。そしてそのまま絶句した。
三人は暫く無言のまま固まっていると、
「まぁっ! あらあら、やっぱり友達って凄っい! 素敵ねぇ~! ウフフ……さぁ、みんなお昼の準備が出来たわよ~さぁ、冷めないうちにこっちにいらっしゃーい」
とフクタの母の陽気で快活な声が庭まで聞こえて来た。

――

カフカ山の中に隠されていた研究所の外では所長と数十人の研究員たちが、建物の外で作業をしていた。木に登る者や、木の周りの雑草を刈ってる者がいた。
「よし、よし、お前ら、その調子だ。あ~~さぞや圧巻だろうな。これで我々の同胞たちがより広い世界で飛んで行ける……では、その調子で準備を進めておいて下さい」
所長はそういうと研究所の中へ入って行った。
延々と長い廊下を歩き、突き当たった左側にドアがある。そのドアを開けると、ガラス張りの実験室があった。
ガラス張りの横にドアがあり、部屋全体は二重構造になっていた。
所長はガラス張りの横のドアを開けると、人が二人ほど入れる狭い空間の除菌室になっている。
入って来たドアを閉めると、プッシューーーという音と共に勢い良く涼しい風が全身を包む。
数秒間、冷風を浴びた後、いよいよガラス張りの実験室の中に入る事が出来た。
中では数人の研究員達が実験をしている。
パソコンの前で、眼鏡の研究員がデータを入力していた。
所長が入って来た事に眼鏡の研究員が気付き、席を立ち上がった。
「どうだね? 実験は順調かな?」
「はい、あともう少しで完成すると思います」
「完成? この間、完成したって言っておっただろう?」
所長が眼鏡の研究員を睨みつけた。
「えっ? あれは、理論上、完成したと言ったのです。まだ、これから、いろいろと検証しなければいけませんので、もう暫くかかります」
「何? 完成したのか、してないのか、ハッキリせい! もうすぐ春一番が来るのだ。おい! また間に合わなかったのか!」
「い、いえ……完成したか、どうかと言えば、完成はしました。ただ、その検証が……」
「おぉー君は優秀だな。最近は、ずっとこの実験室の中で寝泊まりしているそうじゃないか?」
「はい、あともう少しなもので、そこの横のソファを使わせてもらっています」
所長が目をやると、入って来た手前にソファが転がっていた。
「で、その検証は、いつ終わる?」
「はい、アタッチメントの部分の実験が終わりましたので、これから総合実験に入ります。少なくとも、理論に問題がなければ、あと一週間ほどで検証できると思います。あとはアポトーシスの部分に懸念事項がありますが……」
「えっと、ちょっと、待った! 待った! 専門用語なんて言われても私にはわからん。一応、完成しているんだな。うん、わかった。ではよろしく頼む」
所長は逃げるように実験室を後にした。
その所長の後姿を眼鏡の研究員がガラス越しに見ていたが、その眼鏡が鈍く光ったように見えた。

――

「で、その菌糸がスギ花粉と一緒にバラ撒かれる可能性が高いと……はい、だいたい、話はわかりました……」
刑事はメモを取りながら頭をかき、三人の様子をチラっと見た。
ウージとタキシとフクタの三人は警察まで出向いて刑事に自分達の予想について話し終えたところだ。
刑事は、今度はフクタをチラっと見てから、
「う~ん……そうですか……でも、そのねぇ? ウージ君、とタキシ君……君達ねぇ、そろそろ中三だよねぇ? その……本人の前でとても言いづらいんだけど、小学生の子の言う事をまともに受け取っちゃ、まずいんじゃないかなぁ……」
刑事はメモから目だけ上げて少し恐る恐るウージを見た。声を上げたのはタキシだ。
「刑事さん! それは酷いですよ! フクタ君はここにいる中で一番頭が良いし、この事にはついては世界中で一番詳しいんだから、ちゃんと話を聞かなきゃだめですよ!」
ウージは、タキシの良いところが裏目に出ていると思った。どんどん嘘臭くなる。
「じゃじゃあ、け刑事さんは、あの大量の湿った原木、がどうして盗まれたと思ってるんですか? あ、あれから何かわかりましたか? 所長の行方だって未だに、つ掴めていないんですよね? も、もう、菌糸の事は信じてもらわなくても良いです。でもあの研究所で薬物を使った、じ、人体実験をやってた事は判明したはずじゃないですか」
ウージは努めて冷静に聞こえるように話したつもりだ。
刑事は、痛い所突いてる来るなぁ、これだからこの年頃の子供は厄介だと思った。
その時、若い警官が刑事に近づき小声で話したが、はっきりと聞こえた。
「やはり、行方を探しに行った班が、カフカ山近辺で連絡が途絶えたという情報は、本当のようです。どうしますか? もう一班編成し直しますか?」
「いや、ちょっと待て」
刑事は若い警官を下がらせてから、三人の方を向き直し、
「ええと、ハイ、話はわかりました。うん、でもウージ君、所長が捕まるのも時間の問題だから、我々だって、あの湿った原木に何の仕掛けもしておかなかったわけじゃないんだ。既に居場所は突き止めてあるんだよ。まあ、ちょっといろいろあるけど、すぐに捕まるから、そしたらニュースになると思うよ? だから今日のところは、これで……という事で良いかな?」
三人は大人しく帰る事にした。
警察署を出てから、タキシが不思議そうに、
「湿った原木に仕掛けって何だろうね?」
「そ、そりゃ……発信機か何か……だろ」
「へ~凄いね! スパイものみたいだねぇ! それでカフカ山に潜伏してるのがわかったってわけかぁ」
「し、シーー! タキシ! それは聞こえてなかったフリをするんだよぉ! ったく、お前は声がでけぇんだよ、し、静かにしろぉ!」
フクタは青い顔がますます青くなってボソっと言った。
「そっかぁ! カフカ山って言えば、ニュースでよくスギ林がどうのって言われる所だもんねぇ。やっぱりフクタ君の予想は当たってそうだねぇ」
タキシはしきりに感心している。
「さっき警察の話じゃ、あの所長を捕まえるのはムリそうだな。捜索に行った警官隊は、すでに有害菌糸にやられてるんじゃないか? でも、そんなに簡単に、警官があんな研究員に捕まるかなぁ……確か有害菌糸は、直接接触しないと、植え付けられないはずだろ?」
「それをフクタ君が心配してるんだよ。あの有害菌糸の弱点は空気感染が出来ないって所だったんだよ。だけどフクタ君が開発した天敵菌糸は空気感染ができる。その分、繁殖力が高いから圧倒してたって事だよねぇ。でも、あれから半年も潜伏して、こういう事を仕掛けて来るってことは、有害菌糸も空気感染できるようになったんじゃないか? ってフクタ君は心配してるんだよ」
「つ、つまり、ヤツラは本当にそんなものを開発しちまったって事か……それなら警官を何人送り込んでも、む無駄じゃねえか! じゃ、じゃあこっちも大量にその天敵菌糸のスプレー缶持って乗り込めば良いじゃねえか?」
「え~ウージ君、警察が無理なのに僕らが行ったって何も出来ないよ。ねー変な事、考えないでよ? フクタ君もだよ。僕らが考えなきゃいけないのは、どうやって、あの刑事さんを説得するかって事だろ? あの刑事さんが駄目なら他の刑事さんに話を聞いてもらえば良いじゃないか。と、とにかく僕は行かないからね。もう、あんなのまっぴらだよ。ね、今日の所は解散して、また作戦を練ろうよ」
ウージとフクタは頷いて、その日は解散した。

翌朝、まだ早い時間に、
「タキシ君! 電話ですよー」
タキシが施設の職員に呼ばれて電話に出るとフクタの母親からだった。
「あっ、タキシ君? 良かったぁ~~タキシ君たち、まだ出てなかったのね。あ~~良かったぁ~~」
フクタの母は電話の向こうで声を弾ませている。
「あっ! ごめんなさい、アタシったら。あのね、フクタったら、せっかく作ってあげたお弁当忘れちゃったのよ。それでね、もしよかったら、フクタのお弁当、買って行ってあげられないかしら? ちょっと立て替えてもらう事になっちゃうんだけど、無理かなぁ?」
タキシはびっくりしたが、さすがにどこへ行ったんですか? とは聞かなかった。内心そうなるんじゃないかと心配していたからだ。
「あっ、えっと……はい……大丈夫です。立て替え大丈夫です。じゃあ、フクタ君のお弁当は、こっちで用意していきます」
「そう! あ~良かったぁ~助かるわ~。じゃ、今度、うちに遊びに来た時に返すから、よろしくね。それじゃ、ピクニック楽しんで来てね!」
タキシは受話器を置くと、階段を慌てて駆け上がり、ウージがいる部屋に戻り、電話の内容を話した。
ウージは、はぁーと大きなため息をつくと、
「そうか……やっぱり、やってくれたな……あんのガキ! いつも、いつもコソコソコソコソとぉ! よし、タキシ! 俺らも行くぞ!」
「えぇぇ~! 無理だよ。け、警察に行こう。そう! それであの刑事さんに話そうよ!」
「バカ! あの刑事が信じてくれなかったから、こういうことになったんじゃねぇか! 行ったところでピクニック扱いされるのがオチだろ。さっ、行くぞ! 用意しろ! 何が必要だ?」
「む、無理だって、相手は大勢いるかもしれないんだよ?」
「もう、イイ! お前は残っとけぇ! 時間がねぇ!」
ウージはそう言って、出て行くフリをしてから、振り返ったが、本当にタキシは動かないで、じっとウージを睨みつけて小刻みに震えている。
「おい! タキシ! お前、本当に行かないつもりか?」
タキシは、ウージに背中を向けて床に座り込んで、
「ふ、フクタ君なら……き、きっと大丈夫さ……きっと、何か僕らなんかが付いて行かなくても良い手でもあるんだよ」
「おい! お前……あのガキは一生の友達じゃなかったのか?」
タキシは、座ったまま俯いて顔を振ってプルプルとさせている。
「お前の一生の友達っていうのは、口だけか?」
タキシは座ったまま、ウージの方を振り返ると、
「く、口だけって……ちょ、ちょっと待ってよ! 悪いのはフクタ君の方じゃないか! 何で僕らに相談もしないで一人で行っちゃうのさ! それって、僕らの事を友達だと思ってないってことだろ? 友達だと思っていたのは僕らだけだったんだよ! フクタ君は僕らの事を情報の塊くらいにしか思ってないんだよ」
「だから、どうした!」
「だから……って、僕らなんて頭数に入ってないんだよ。きっと、フクタ君のパパと待ち合わせでもしてるんだよ。僕らなんてちょっと年上の役立たずくらいにしか見てなかって事だよ。今までだって、自分の被害者だと思ってたから、助けてくれていただけなんだよ! どうして、友達だと思ってくれてない人のためにウージ君は危険な所に行けるのさ! ウージ君は本気で、フクタ君と二人だけで、アイツらに勝てるつもりなの?」
「ば、バカ! 連れ戻しに行くんだろ! 今、お前が言った事を言いに行くんだろ!」
「いや、ウージ君はフクタ君の事、止められないよ。そして二人とも死んじゃうに決まってるよ!」
「……だから……そうならないようにだなあ……」
「い、一緒に、し、死んじゃうのが、と、友達じゃないよ」
とタキシは言うと、震えながら目から涙を溢れさせた。
ウージは暫くタキシを見ていたが、やがて……
「そ、それも、そうだな……」
と言い残して出て行った。
タキシは、まだ震えが止まらない体のまま、ウージの後姿を見送った。

――

ウージはカフカ山に向かう駅で下車して、改札を出る時に、駅の係員に小学生が通らなかったが聞いてみると、さっき、一人の小学生が改札を通ったと言う。係員に登山の入口の道を教えてもらうと、急いで小走りで登り始めた。
二十分ほど走った頃だろうか、前方にリュックを背負った見慣れた後ろ姿を発見した。だいぶへばっているように見える。無理もない、半年前まで地下室と土蔵の間を行ったり来たりして過ごしていたのだ。
「おい!」
とウージが声をかけると、びっくりしたようにフクタが振り返った。その顔は汗だくで真っ赤になっている。
「しょ、所詮、子供の足だな……ヒー、す、すぐに追いついたぜ」
フクタは何も言わずに前を向いて歩き始めた。少し嬉しそうに見えない事もない。
「相変わらず、水臭ぇじゃねえかよ」
と言いながら、フクタのリュックを奪おうとすると、フクタが激しく抵抗した。
「ば、バカ! 取り上げるんじゃねぇよ! も、持ってやるだけだよ。俺も一緒に行ってやるよ。俺にも武器が必要だろ! それに、だいぶ、お前もへばってるじゃねぇか。無理すんなって」
フクタは尚更、奪われまいと強く抵抗する。
「こ、交代制にしよう。今まで、お前が持って上がって来たんだから、次は俺の番だ。帰りは、お前が持て、な?」
フクタは、それでも暫くは奪われまいと抵抗していたが、やがて諦めて、ウージにリュックを渡して、歩き始めた。
ウージはリュックを背負って、フクタの横を歩いた。
暫く二人で歩いていると、フクタが後を振り返った。そしてまた前を向いて、黙って歩いている。
「た、タキシは待機させて来た。俺達に何かあった時のための、ほ、保険だ」
フクタはコクっと頷いた。
二人は黙ったまま、登り続ける。
ウージも何かを話そうとするが、何も浮かばなかった。
やがて一時間は歩いただろうか。ウージとフクタは、汗だらだらで憔悴しきっていた。
「おい! ガキ! お前、休んだ方が良いんじゃねぇか? いや、休め! お前、だいぶへばってるぞ、ヒー……えっ? へばってない? 何だ! 生意気に親指なんか立てやがってぇ! 余裕ってか?」
いつもタキシも、こんな感じなんだろうか……少しタキシに悪い気がして来た。
「えっ俺? 俺はぜんっぜん、へばってぇねぇよ。ガキと一緒にすんなよなあ!」
フクタは、だいぶ歩くペースが落ちて、赤かった顔が青くなって来た。ちょっと気持ち悪そうになっている。
ウージもだいぶ気持ちが悪くなって来ていた。
「……ちょっと……ウッぷ。あっ、お前も今、吐きそうになったろ! 良いから、意地はらないで休めよー、ぎ、ぎもぢ悪い……ウッっぷ……わーった、わーった。俺が気持ち悪いから、ちょっと休ませてくれ」
ようやく二人は木陰を見つけて、休憩を取った。
休んでいる間も、二人は、黙ったままだった。
タキシの言った通りだった。ウージは動かない人間に動けという事は言えても、行動を起こしている人間を止める言葉が、まったく思い浮かばなかった。何度も、引き返そうと言いかけたが、その度にフクタの真剣に思いつめた表情を見ると、その言葉を飲み込んでしまい、とうとうここまで登って来てしまった。
「あっ、そうそう、来る前に買って来たんだった」
そう言うとウージは、ポケットからカロリーメイトを出して、半分に折ると、フクタに渡した。フクタは黙って受け取り、一口食べてウェーという顔をした。
その様子を見てハハハと笑いながら、ウージも一口食べた。

――

部屋でタキシは座ったまま泣いている。
――何だよ! 僕を一人にして! ……ウージ君……
タキシはウージとの出会いを思い出していた。
当時、タキシは、父を亡くした後、母によって研究所の施設に預けられていたが、やがて母の死を知らされて、塞ぎ込み、施設の中で一人で漫画を読んで過ごす事が多くなっていた。
そして、それは突然の出来事だった。ある日、タキシの部屋をノックする音が聞こえて、ドアを開けてみると、ウージと呼ばれる少年が立っていた。
「あのさぁ……漫画図書館の人に聞いたら、お前が全巻借りて行ったって話だからさぁ……なぁ、悪ぃけど、一緒に読ませてくれねぇかな? もちろん、お前が読んだ次で良いからさぁ」
当時、ウージは、週に一回くらいのペースで施設に預けられていた。常時、施設で過ごしていた子供達は、自分達のことをメンバーと呼び、ウージのようにたまに預けられる子供達をビジターさんと呼んでいた。メンバーとビジターとの間ではいざこざが絶えなかったが、ウージは当時から、喧嘩っ早く、まためっぽう強かったので、あっという間に一目置かれる存在になっていた。タキシは揉め事になるのが嫌だったので、思わず良いよと、部屋の中に入れてしまってから後悔していた。
タキシはベッドの上で寝転がりながら漫画を読んでいたが、ウージはベッドの横の机に座って読んでいて、タキシが読み終わると、片っ端から手に取って読ん行き、読むのが早いので、せかされているようで落ち着かなかった。
しばらくすると、ドアが突然ガチャっと開いた。ドアには鍵が付いていなかったので、誰でも開ける事は可能だった。
「おい! デカブツ! テメエ、俺より先に、読んでるんじぇねぇよ!」
メンバーの子供がいきなり入って来ると、タキシが読んでいた漫画を全部持って行った。
タキシは何も言わなかった。
ベッドの影から立ち上がったウージは、暫くタキシを見ていたが、やがて口を開くと、
「お前、ずっと、その調子か?」
と言った。タキシはそれに答えず、ウージから目を逸らした。
「アイツらに何も言わねえのか? って言ってるんだ。お前、次に俺の読ますって約束しただろ!」
「そ、そんな約束した覚えないよ。そ、それに今、君、そこにいたんだから、君が言えば良かったじゃないか。ぼ、僕は、君が言うと思ったから何も言わなかったんだよ」
「お前なあ……そんなんじゃ、いつまで経っても友達出来ないぞ? ……そんな図体ばっかデカくて喧嘩の一つも出来ないんじゃ、宝の持ち腐れだな」
タキシは少しばかりカチンと来て、
「そ、そんなの関係ないよ。君の方こそ、いつも喧嘩ばっかりして友達出来ないぞ!」
と反撃した。いつものタキシなら我慢していたが、その時は何故か反撃してしまった。もしかすると、タキシの寂しさも限界に来ていたのかもしれない。何かウージに感じるものがあったのだろう。
「そんな事ねぇよ。俺には友達、たくさんいるよ。本心が言える。殴り合っても、自分の意見を主張し合える。それが友達ってもんだろ? 言いたい事を言わないでヘラヘラし合っているのは、友達ごっこだろ? まっ、親父のウケウリだけどな」
と言ってから、ウージは照れくさそうに笑った。
それを聞いて、タキシは思わず考え込んでしまった。今まで、自分では、友達が出来ないんじゃなくて、作らないんだと思っていた。しかし、仮に友達を作るとしても、ウージの言うヘラヘラした付き合いにしかならないだろうと思った。自分が友達を作ろうと思えば、恐らく、本心を言わないようにするだろう。でも、それはウージのいう友達ではないのだった。
ウージは、タキシが押し黙ったまま、何も言わないのを見て、
「だ、だからさぁ……そ、その、お、俺の定義によるとだなぁ……お、俺に歯向かったお前は友達になっちゃうんだよ。な? そういう事になっちゃうよな」
と言って、前より一層、照れくさそうに笑った。
タキシは、その言葉を聞いた瞬間、自分の体の中が急に熱くなって行くの感じた。

――

暫く歩いた頃、ようやく何か建物の影が見えて来た。
とっさに
「しゃがめ!」
ウージが小さな声で叫びながら、フクタの腕を強く下に引っ張ってしゃがませた。
戸惑っているフクタに、ウージは指で林の右側を指した。
フクタがその方向を見ると、白い服を着た研究員と思われる男が歩いていた。どうやら見張りのようだ。同じところを行ったり来たりしている。
フクタがベストの脇からスプレー缶を出して、人差し指を舐めて頭の上に少しだけ出して風を見ている。
それを見てウージも人差し指を舐めて頭上に付きだした。ウージの手が高すぎるのを見て、慌ててフクタがウージの肘を引っ張って低くさせた。
――ラッキー! 風上だ!
フクタはシューとスプレーを噴射させた。
研究員が音に気づいて、
「だ、誰だ!」
と言って近づいて来たが、既に噴射は済ませたばかりだ。二人は余裕を見せて立ち上がった。こっちは風上だ。研究員が気を失うのも時間の問題だ……のはずだったが……研究員は一向に意識が途絶える様子を見せなかった。何事もなかったたように慎重に二人に接近して来る。
ウージはフクタを庇うようにフクタの前に立ち、研究員と応戦する構えを見せた。研究員は、なおもジリ、ジリ、とウージに近づいて来る。手が届きそうな距離まで近づいた瞬間、研究員はポケットからスプレー缶を取り出した。そして取り出すや否やウージの顔に目掛けて勢い良く噴射した。
「わっ!」
ウージは一瞬怯んだが、今度は研究員の方が呆気に取られて見ている。どうやら、ウージが倒れない事が研究員にとっては不思議な現象らしかった。今まではこれで相手が倒れていたらしい。
「ひっ!」
研究員が怯えて取り乱しながら逃げて行った。
「へへ、俺らのも効かなかったけど、アイツのも効かなかったようだな」
ウージも一瞬ビビったのを隠すように陽気に振る舞っている。
――ドサッ
その時、ウージの後で何かが崩れる音が聞こえた。
ウージが振り返るとフクタがその場に倒れていた。
「ど、どうした? おい! どうした?」
フクタは苦しそうに顔を歪めている。
ウージが必死にフクタの体を揺すったが、フクタの全身から力が抜けてしまったようでグッタリとしている。
「う~ん……」
フクタは何かを言いかけたが、完全に意識を失ってしまった。
――こ、こいつはまずい……ここは撤退だ!
今、逃げ帰ったヤツが仲間を連れて戻って来るに違いない。
ウージはフクタを背負うと、元来た道を下り始めた。
小学生とはいえ、グッタリしている人間の体は重い。
元々ウージも体が大きい方ではないし、ましてや、今、登って来たばかりで、疲れ切っていた。
急な下り坂で足をよろけさせて、倒れてしまった。
――っつーー!
足首に激痛が走った。どうやら足首を捻挫したらしい。
――くっそー! こんな時に……
ウージは尚もフクタを背負いながら、片足を引き摺りながら、山を下り始めた。
しかしこのままでは研究員の追手に捕まるのは時間の問題だ。
と、その時、どこかで聞き覚えのある声が聞こえて来た。
「フッホ、フッホ……」
――あれは!
「フッホ、フッホ……」
――タキシぃー!
「あっ! ウージ君! どうしたの? あれっ? フクタ君? フクタ君、どうしたの?」
タキシは息を弾ませながら、ウージの背中からフクタを下ろして、横に寝かせた。
その時、フクタが意識を取り戻した。
「あっ! フクタ君、どうしたの? 何があったの?」
フクタが苦しそうになりながらも、必死にタキシに何かを伝えている。
タキシは、うん、わかった、そうすれば良いんだね? うん、と相槌を打っていたが、やがてフクタは言いたい事を言い終わると満足したように再び意識を失った。
「おいっ! タキシ! 話は後だ。まだ研究員たちが追って来るかもしれねぇんだ! と、とにかく逃げるぞ!」
とウージが言うと、タキシはうんと頷き軽々とフクタを背負って、
「フッホ、フッホ……」
とウージの前を走りだした。
「おい! ちょっと待てって! 俺も足挫いてるんだって……」
とウージは片足を引き摺りながらタキシの後を追ったが、その顔はにやけていた。
「そ、それにしても、お前……よく来てくれたな。た、助かったぜ、タキシ」
タキシは、自分の体の中が急に熱くなった、あの日の事を思い出していた。

――

タキシは、急に体が熱くなった後、思いっきりフーと鼻息を荒げて、ベッドから立ち上がり、部屋のドアをバンッっと勢い良く開けると、廊下に出て行った。
ウージが慌ててタキシの後を追うと、先程、タキシの漫画を持って行った子供の部屋のドアをガン! ガン! と思いっきり叩き始めた。元々、力はあるので、物凄い、聞いた事もないような音が廊下中に響いた。
タキシはその子供の部屋のドアを開けると、部屋のベッドで寝転んで漫画を読んでいた子供が怯えた様子でタキシを見た。
その子供は相手がタキシだとわかると、少し安心した表情を見せたが、その顔を見てさらに怯んだ。元々、体がデカイ上に顔を真っ赤に上気させて、目がギラギラとしている。
「さっきの漫画、返しておくれよ。さっきの漫画の先約は、え……と……こちらの……」
と言って後を振り返ると、ウージが後に立っていた。
「ウージだ」
タキシは、少年の真正面に向き直って、
「このウージ君との約束なんだ! さっ! 返しておくれよ」
と言うと、
「えー! タキシ、それを先に言えよ! ウージさんかよ……す、すみません、ウージさん、俺、し、知らなかったもんで、は、はい、す、すぐ返しますから、見逃して下さいよ。こ、こいつ、タキシがちゃんと言わなかったんですよ」
少年はその辺に転がっていた漫画を出来るだけかき集めるとタキシに渡した。その中にはタキシが借りた物じゃない物も含まれている。
タキシは、ありがとう、と言うと自分の部屋に戻って来た。
それから、ウージは施設に来る度にタキシの部屋にいつくようになった。一緒に漫画を読んだり、笑って話をするようになったが、たまにタキシは、楽しんでいる自分に気づくと戸惑った。この戸惑いが嫌で人を避けていたのだった。
ある日、ウージが、
「タキシぃ……お前、一緒に笑ったりした後、必ず悲しそうな顔するな……そ、その……何で? あっ! 言いたくなければ、言うなよ! 言わないのも、お前の勝手だからな」
タキシは言おうかどうしようか迷ったが、やがて、
「僕、お父さんが死んじゃって、お母さんにこの施設に入れられたんだけど、この間、お母さんも死んじゃって……それで、笑ってて良いのかな? って……ついつい思い出しちゃって……やっぱり、こういうのって、おかしいかな?」
「別におかしかないんじゃないか? 俺も母ちゃん死んじゃって、そんな風に思った事あったからわかるよ。……でもな、お前の母ちゃんと親父は、自分が死んだら笑わないでくれって約束したのか?」
タキシは、えっ? と驚き、暫く呆然としていたが、やがて
「そ、そんな事、考えた事もなかったもの、たぶん母さんとも父さんとも……そんな約束なんてするわけないよ」
「だろ? なら、良いんじゃねぇか? 人間は約束を破らなければ、それだけで立派なんだよ。まっ、これも、親父のウケウリだけどな」
ウージは、照れくさそうに笑うと、思わずタキシもププっと笑い、
「なんだーウージ君、立派な事はぜ~んぶ、お父さんのウケウリじゃないかあ」
「ウルセー!」

――

タキシは走りながら、後を振り向き、
「フッホ、フッホ、僕、フクタ君の一生の友達になるって約束したんだ。フクタ君が僕らをどう思ってるか、そんな事、関係なかったんだね。僕の方こそ遅くなってゴメンよ。フッホ、フッホ」
ウージは足を引き摺りながら、顔をしかめて、
「っつつ~、痛てて……マジでお前が来てくれなかったら、危なかった。はぁ、はぁ……」
「フッホ、フッホ、フクタ君、グッタリしてるよ。感染したって言ってたけど、どういう事?」
「えっ? 感染? どういう事だ? はぁ、はぁ……」
「聞いてるのはこっちだよ」
三人は必死に山を下って行った。

――

「信じられません! こんな症状は初めて見ました。この子の体、特に脳を中心に初めて見る菌糸がびっしりとネットワークを張っています……」
医者が興奮して一気に早口で話しているのをフクタの父親と刑事が聞いている。
刑事は信じられないといった表情で、
「ま、まさか! 菌糸ですか? 本当に人間の脳にネットワークを張る菌糸なんてあったんですか?」
フクタの父は、涙目になりながら、
「ええ、半年前の事件では、この子が開発した天敵菌糸がすべての有害菌糸を消滅させて、その天敵菌糸もアポトーシスによって消えてしまいましたからね。私達が何を言っても信じてもらえるはずもありませんでした。でも……こんな形で証明されてしまうとは……」
ウージとタキシは、除菌室に隔離され眠っているフクタをガラス越しに、じっと見ていた。
そこにフクタの父と刑事がやって来た。
「君達も大変だったね。いや、その……君達の言う事を信じてあげられなくて本当に済まなかった……」
と言いながら刑事が二人に頭を下げた。
ウージとタキシは、刑事の方を振り向かずに、ガラスの向こうで寝ているフクタから目を離さない。
「あの子が、意識を失う前に言った言葉は、『このままだと支配されるから出来るだけ遠くに自分を連れて行って、他の人に感染しないように隔離して、眠らせておいてくれ』って事で良いのかな? それで病院まで運んで来たと?」
「はい」
ウージは何も言わなかったが、タキシが面倒くさそうに返事をした。
その時、タキシがフクタの父親に気づいて硬直した。
「あ、あの、す、すみませんでした。フクタ君をこんな目に合わせてしまって……その、何て言ったら……」
その声にウージも気がついてフクタの父親の方を見てから目を伏せた。
「良いんだよ。話は逆だろ? フクタが一人で行くって言ったのに君らが一緒に行ってくれたんだろ? 私の方こそ、肝心な時に頼ってもらえないなんて情けないよ」
フクタの父親は泣きそうになるのを必死に堪えている様子だった。
「ち、違うよ。こ、こいつは、一番におじさんに相談したかったに違いないさ。で、でも、その、おじさん、会社で、その……」
ウージが最後まで言えずに黙っていると、
「ああ、私があの事件依頼、会社で立場が悪くなっていたのをフクタも知っていたってわけか……バレないようにしてたつもりだったんけど……そうか、それでか……、どうも子供に守ってもらうようじゃ私も……」
フクタの父はもう何も言えなくなり、肩を震わせている。
刑事は居た堪れない気持ちになり、逃げ出したくなったが、必死の思いで最後の質問をした。
「と、ところで君達は、その、ちょっと聞きにくいんだけど、どうして無事だったんだい?」
フクタの父親は泣くのをやめ、三人は目を見合わせた。
暫く沈黙が流れた後、フクタの父親が口火を切った。
「免疫……そう免疫じゃないのかな? ウージ君とタキシ君は以前に有害菌糸に侵されていた。だから有害菌糸に対して免疫を持っていた。でも、フクタは今回初めて、空気感染させられた。当然、フクタには免疫がない。そういう事かな? ……という事は二人の体からワクチンが作れる。そういう事になりませんか? 先生?」
それまで側にいて、抜け出すタイミングを逸していた担当の医師が唐突に話を振られ、しどろもどろになりながら、
「ま、まぁ……理屈はそう、なります……ね」

――

「フクタ君! まだ寝てなきゃ駄目だよ! 治ったからと言ったって、二週間以上も眠ってたんだから。フクタ君のママなんてずっと泣いてたんだよ。えっ? へっちゃら? も~う~また~」
フクタの母は医師に呼ばれていたため、病室の中にはフクタとタキシだけだった。フクタの母親はタキシの言うとおり、フクタが眠っている間、ずっと泣いていたが、フクタの目が覚めると何事もなかったように元気を取り戻していた。
フクタの母親がウキウキした様子で、病室に入って来て、
「フクタぁ~先生がねぇ、もう明日、退院しても良いってよ。良かったわねぇ。今日、念の為に検査するみたいだけど。フクタ、何か食べたいものない? 明日、退院祝いしようよ。そうだ! タキシ君もいらっしゃいよ、ウージ君も連れて来て。二人とも、毎日、お見舞いに来てくれてありがとうね。私、ずっと泣いてたから、恥ずかしい顔、いっぱい見られちゃったけど、ホホホ、でも心強かったわ~」
「あ、はい、じゃ、お言葉に甘えて、参加します」
「ところで、今日はウージ君は来ないの?」
「あっ、今、刑事さんに話を聞きに行ってるんです。もう少ししたら来ると思いますよ」
暫く、談笑していると、ウージが病室に入って来た。
「あっ、どうも」
ウージはフクタの母親に挨拶した。
相変わらずウージの態度はぎこちない。どうしても、フクタがこのような事態になったのは自分のせいだという気持が拭えず、いたたまれなくなるのだった。
こういう時、タキシの図太さが羨ましくなる。こいつはフクタの両親が言った、あなた達のせいじない、という言葉をそのまま受け取ることが出来るのだった。
「おい、タキシ、今、警察に行って来たんだけどな、俺達と元研究員の体から作ったワクチンな、大量に作ったらしいぞ。でな、空気感染しないように防護服着てカフカ山に突入するって言ってたぞ。こんな事、教えてくれるなんて、あの刑事さんも良いと所あるよな」
ウージは、タキシに話をしている風を装いながらフクタに話している。
フクタが意識を取り戻してからも、まだ自分で何とかしようと焦っている様子を見て、もう事態は自分達の手を離れたのだと伝えたかった。
タキシは、ウージの話を聞いて嬉しそうにフクタに、
「そっかぁ! フクタ君、良かったね。警察が信じてくれたんだから、もう安心だよ。後は、あの刑事さん達に任せておけば大丈夫だよ。それに、もう、天敵菌糸が効かないってわかったんだから、僕達に出来る事はないよ」
フクタも安心したようにコクっと頷きながら、ボソッと何かを尋ねるようにウージを見た。
ウージの目が点になっているのにタキシが気づいて、
「警官隊って何人くらいで組織されてるの? って」
「あ? ああ……あの刑事の話だと、向こうの研究施設にいる研究員の数が、せいぜい二十人くらいだろうから、こっちは戦闘のプロだから三十人もいれば余裕だって、言ってたぜぇ!」
それを聞いたフクタが、えっ! という驚いた表情を見せたあと深刻な表情で考え込み始めた。その表情にウージとタキシも気づいて、心配そうにフクタを見つめる。
三人の話を聞いていたフクタの母親が、
「ねぇ、それ、この間からよくわからないんだけど? 何? フクタは山でタチの悪い虫……何だっけ? ……そう! キンシって虫に刺されたんでしょ? その虫が、警察が騒ぐほど大量発生してるってことよね?」
フクタの母親は三人の様子を見て、キョトンとしている。
「うぇ? うん、えぇ、そう、です……おばさん、そうです、そ、その虫、かなりタチが悪いんですよ」
タキシが慌てて言うと、ウージとフクタも顔を見合わせて、なるべく顔の筋肉を動かさないように何度も頷いた。

――

「所長! つ、遂に検証が終わりました! 遂に我々は飛散能力を手に入れましたよ」
黒縁の眼鏡をかけた男が、デスクの椅子にでんと座っている所長に研究レポートを見せて立っている。
「ああ……そうか……それは先日、聞いておる。要するに問題はなかったんだな? それなら良い、こっちも先行して準備させておる。さすが研究員の中で最も優秀な男だけあるな。これで我々は直接、人間に接触しなくても、仲間を増やして行く事が出来るぞ! うむ、こちらも既に準備は出来ておる、研究所ビルの保管室に眠っていた我々の同胞を救い出して来ておるんだ。今年の春風は最高になるだろう。私はなぁ……あの風にのってどれほど広がって行きたかったことか……」
所長はいかにも感慨深い様子だ。
「ときにそれはどういった理屈なんだ? 我々があれほどの研究員を動員しても開発出来なかったのに、あのジジイの孫が作った天敵菌糸のサンプルを手に入れてから半年で完成に至るとは?」
所長は不思議そうの眼鏡の研究員の顔を見上げた。
「はい、すべて、あのフクタという子供のおかげですよ。あの子が作った我々を死に至らしめる天敵菌糸は元々、あの子が結界菌糸と呼んでいたものをバージョンアップしたものなんです。元々、結界菌糸だけで我々を死に至らしめることが可能でした。しかし、我々を死に至らしめてから、アポトーシスするスピードが三秒と異常に速かったため、我々の仲間は、死に絶える前に息を吹き返す事が可能だったんです」
「うん、それは半年ほど前にすでにわかっていた事だ。そのおかげで、私も恐るるに足らんと判断して放置していたわけだからな……で、私の最初の質問に答えてくれないか?」
「はい、我々の今までの研究は、例えるなら、我々に羽根を生やそうという発想で開発を続けていたんですが、あの子の発想は、飛散する胞子を作る菌糸とペアを組ませるという発想だったんですよ。それで我々は、その発想を頂いて、あの子が作った天敵菌糸から胞子を作る菌糸の部分を頂いたわけです。つまりアタッチメントが可能な胞子菌糸だったというわけです」
眼鏡の研究員が目をキラキラさせて所長を見ている。
「う~ん? そう……よう、わからんが……まっ、つまり、飛ぶんだな? うん、飛ぶなら良い。もう、下がって良いぞ」
「はっ!」
眼鏡の研究員が部屋を出ようとした時、
「いや、待て、君、ちょっとこちらに来なさい」
眼鏡の研究員は何だろう? という表情で再び所長のデスクの前に戻った。
「いや、もっと、こっちにデスクを回りこんで来なさい」
所長は手招きしている。
「はぁ……」
眼鏡の研究員は意味がわからないという面持ちだが、デスクを回りこんで、二人の間に障害となるものはなくなった。
「ときに、君は優秀だなぁ! 何と言ったって、この研究所、始まって以来の秀才だからなぁ……」
「はぁ……お、恐れ入ります」
眼鏡の研究員はかしこまって一礼した。
「君、本当は実のところ、私が無能で嫌だろう? 私は君ら研究員の力をまったく活かしきれておれんのだろう? どうだろう? 研究所で一番優秀な君の事だ、今までだって何度も、私に取って代わりたいと願っていた事だろう? なぁ、そうだろう?」
眼鏡の研究員は身の危険を感じて、
「いえっ、決してそのような事は……わ、私は研究さえ、させていただくだけで、ま、満足していますので……」
しどろもどろになりながら答えた。
「よい、よいのだ。別に私は君を責めているのではない。優秀な脳がそれに満たない脳を支配する。至ってシンプルな事ではないか。私も当初は、この男の組織力を買っていたんだがなぁ……今回の一件でほとほと、この男の脳が嫌になった」
「はぁ? 所長、あの何をおっしゃって……」
所長は椅子から立ち上がると、すでに耳と鼻から菌糸の触手が出てきていた。
――ひゃあ!
研究員は腰が抜けて、グシャリと床にへたり込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
所長の耳と鼻から出てきた菌糸はさらに、にゅ~~~と、伸びて来て、眼鏡の研究員の耳と鼻に侵入して来た。
眼鏡の研究員は既に白目をむいている。
「あヾーーーぁ……」
暫く時が止まったように静かになった。
最初に倒れたのは……所長だった。
ガクッと膝から床に崩れ落ちて白目をむいて泡を吹いている。
眼鏡の研究員の白目は元に戻り、人差し指で眼鏡を上げ、ゆっくりと立ち上がると、窓から外の景色を眩しそうに眺めた。

――

警官隊が研究所の周りを包囲して、包囲網を徐々に狭めていた。
たまに研究員達がスプレー缶で噴射して来たが、警官隊には全く効果がなかった。
警官隊全員が既に免疫注射を打っていたし、万が一に備えて防護服も着ていたからだ。
逆に研究員達の方は簡単に取り押さえられて、次々と免疫注射を打たれて意識を失って行った。
意識が戻った者から順番に、尋問が行われていたが、研究員達は、まったく覚えていない様子で、所長の計画を聞き出せずにいた。
刑事は焦りながら、本幕から本部に報告していた。
その時、若い警官が刑事の元に走って来た。
「警部! 杉の木の上に、湿った原木が縛られているのを発見しました!」
「何だって?」
刑事が外に出て、空を見上げた。
他の警官達も一斉に空を見上げていた。
口々に、「あぁー」という声があがって来た。
一人が木によじ登って、縄を解いて、湿った原木の一つを持って、降りて来た。
刑事が確認する。
「間違いない、こいつだ」
そして、一度見つかると……
――あるわ、あるわ……
「あぁ! あそこにも! あっ! あそこにも!」
次々と、杉の木の上に縛り付けられた湿った原木が発見されていく。
「よ、よし! 片っ端からから回収しろ!」
刑事が号令をかけると、警官が一斉に木に登り始めた。
と、その時、怒号が聞こえて来た。
「同胞を死守せよ! 同胞を死守せよ! 同胞を死守せよー! わーーーー!」
と研究所から出てきた研究員達が一斉に警官に襲いかかって来た。
「と、取り押さえろ! 取り押さえろ! いいか! 絶対に強い衝撃を与えるなよ! 特に頭は殴るなよ。首がポキっと行くらしいぞ、いいな! 絶対に研究員たちを殺すなよ」
刑事は言っていて恥ずかしくなったが、今となっては、ウージが言っていた事を信じるしかなかった。
警官隊は、湿った原木を回収する班と、その作業の妨害にやって来る研究員達から守る班に分けられた。
「やれやれ、これじゃ、まるで棒倒しって言うんだっけ? 運動会だよ」
と刑事は嘆いて見せたが、若い警官達は、誰も棒倒しを知らなかったので、
「はぁ……」
と答えるだけだった。

そんな騒ぎが暫く続き、痺れをきらした刑事が本部に応援を要請している。
「はっ! そうですか……はっ! わかりました。では」
刑事は忌々しそうに携帯を切った。
――くっそ! これ以上、増員出来ないだと? この調子じゃ、とてもじゃないが、湿った原木の回収が間に合わない。
空を見上げると、今にも強風が吹いて来そうな気配だ。
相変わらず、警官隊達は、次から次から湧いて来る研究員達を取り押さえては免疫注射を打つ、の作業に追われていた。また木登りに慣れていない警官の中には落下して怪我をする者まで現われた。
――くっそー! これじゃあレスキュー隊を呼んだ方が良いんじゃないか? 木登りは我々の管轄ではない!
刑事はイライラしながら、回収が間に合わずに、スギ花粉に紛れて、有害菌糸が飛散して行く様を想像してゾッとしていた。
所長がどういう方法で研究所の外の感染者に命令するのか予想もできないが、もし仮に可能だとしたら、今度は包囲されるのは我々警官隊、という事になる。そんな事になったら、人数では、圧倒的に向こうが有利だ。しかも空気感染するなら、向こうは増員する一方なのだ。
我々は本部に事態の深刻さを詳細に説明しているはずなのに、今の人員確保が限界だと言う。
一体、世の中、どれだけ、のっぴきならない事件が多発しているというのだ?
その時、若い警官が入って来て、
「警部、駄目だと言ったんですが、警部の知り合いで、三人とも既に免疫注射は打っているというものですから、連れて来たんですが、すぐに返しましょうか?」
刑事がふと振り返ると、ウージとタキシとフクタの三人が若い警官の後に立っていた。
刑事は既に藁にもすがりたい気分になっていたので、
「やぁ、君達か? 何かな? 何か新しい発見でもあったかな? まぁ、こっちに来て座りなさい。君、コーヒーまだ、あるよね? 彼らに入れてあげて」
刑事は努めて、期待などしていなかった振りを装ったが、若い警官は、ヤレヤレとコーヒーの準備を始めた。
唐突に刑事に質問を発したのはウージだった。
「今、どういう状況ですか? 湿った原木が杉の木の上から見つかったり……とかしてますか?」
刑事はギョッとして、若い警官の方を向いて睨みつけた。しかし、若い警官は必死に手を振って自分が漏らしたのではないと、頭を振っている。
「ウージ君、どうしてそれを?」
「フクタ君が、その可能性が高いって言ったんですよ」
タキシは自分に聞かれたわけでもなく、自分の手柄でもないのに得意そうな顔をしている。
刑事は改めてフクタを見たが、フクタはすぐに俯いて視線を落とした。
「あの……俺らが研究所の中に入って、何かこの事態を収める方法を調べられないかと思って来たんですが……」
ウージは駄目元で思い切って言ってみた。言った後でさすがに怒鳴られるだろうと覚悟して、上目づかいに刑事を見た。
「何だってぇ! 君ら何を言ってるんだ。研究所の中なんか、とても入れないよ。とにかく、半年前に雲散霧消したと思っていたのに、ここへ来たら、いつの間にかにわんさか増えていたんだから、まったくの誤算だったよ! せいぜい、いたって二十人くらいだと思ってたら、さっき、すでに五十人以上も搬送されてるんだから、もう……」
刑事はうっかり内容をペラペラと話てしまった事に気づいてハッとして口を抑えた。
若い警官がコーヒーを運んで来て四人に配りながら、必死に笑いを堪えている。
「君、ちょっと外の様子を見てきてくれ!」
刑事はぶっきらぼうに若い警官に言うと、若い警官はヤレヤレという感じて出て行った。
「君達、今、聞いた事は外では話さないでくれよ」
「はい、それは大丈夫です。でも、それなら尚更、春一番まで間に合わないんじゃないですか? 菌糸がバラ撒かれたら、えらい事になりますよ、とても今の免疫注射の量じゃ足らなくなるんじゃないですか? まだ、彼らが大丈夫だと思って、研究データを消去してしまわないうちに、そのデータを手に入れる必要があるんです。良いですか? 今、一番大事なのは、湿った原木を回収する事ではなく、それがバラ撒かれた後、どうやって速やかに事態を収集するかです。そのために彼らがヤケになってデータを消去する前に、まだ彼らが勝てると思って油断している今こそ、彼らの半年分の研究データを奪うんです。刑事さんが言う、まだ研究員がウジャウジャいる間に中に潜入しないと意味がないんです。大方の研究員がつかまってしまったら、きっとその時は、データが消去されてしまいます」
刑事は、呆然としながら聞いていた。
「そ、そうか……そう……だね。たぶんウージ君の言うとおりだね。研究データか……」
「ぜーんぶ、フクタ君のウケ売りだけどね」
また何故かタキシが得意になっている。ウージは横目でタキシを見ながら、チッと小さく舌打ちした。
暫く呆然としながら、何度も頷いていた刑事だったが、我に返ったように、急に立ち上がって、
「で、でも、ダメだ! ダメだ! 君ら三人を、研究所の中に潜入させるなんて、そんな事、許可できるわけがないよ。わ、わかった、その研究データは我々が潜入して何とか手に入れよう!」
「でも、その……刑事さん達が……その研究データを見て、どれがそうか、わかるんですか~?」
タキシが疑り深そうな目で刑事を見上げた。
刑事は、
「いや……それは……」
と言ったまま絶句したのを見てウージが笑いを堪えている。
とその時、外が騒然とし始めた。何やら外で事件が起きたらしい。
刑事が外に出ようとした時、若い警官が慌てて中に入って来た。
「警部、大変です。しょ、所長が研究所の中から出て来ました」
「所長が?」
「はい、そして今、ちょうど確保したところです。今、こちらに連れて来るところですから、その彼らは……」
若い警官がウージ達三人をチラっと見た。
「……ん……いや、彼らにはいてもらおう。その代わり、ちょっと離れていてもらおうかな。あと危険物を所持していないか、よく調べてから、ここに連れて来るんだ」
「は!」
暫くして、本幕の中に所長とその両脇を抱えた警官二人が入って来た。
所長の表情は呆けていて、とても何か企んでいるようには見えなかった。口からは、よだれを垂らして、呆け老人の雰囲気を漂わせている。
刑事も、その姿には面食らって、
「おい、医者を! 医者を連れて来い」
医者を待っている間、本幕の中では、時が止まったようになっている。
その時、ジョ~と所長の股間が染みだして来た。
「ゲゲ―! こいつ小便漏らしやがったぁ~!」
警官が声が上げた。
連れて来られた医者が、暫く所長の目にペンライトを当てたり、いろいろと調べている様子だったが、やがて、
「感染していないようです。ちょっと、この環境では詳しい検査が出来ませんが……たぶん、していないと見て良いでしょう」
と、きっぱりと言い切った。
「そ、そんなはずは!」
刑事は大声を上げた。
「いえ、本当です。ただし、だいぶ、その痴呆が進んでいる状態で、たぶん、彼からは何も聞き出せないでしょう」
「あぁ~あぁ~」
所長は口からよだれを垂らしながら、くすんだ目で宙を見ている。
「だ、誰か! ここへ連れて来る前に免疫注射を打ったのか?」
刑事が声を荒らげて警官達に聞いたが、誰も打っていないと答えた。
いつの間にかにフクタが所長の近く来ていた。
「こ、こらっ! 近づいちゃ駄目だ! 離れなさい!」
刑事が慌てて怒鳴ったが、フクタは構わず所長に近づき、ペンライトで、所長の目や舌を見ている。
「こ、こらっ! 離れなさいと言うのに!」
刑事が、フクタを所長から無理矢理引き離して、よろけた所をタキシが受け止めた。
「あっ、ゴメン! つい力が入って……」
刑事が詫びたが、ウージは凄い形相で睨みつけている。
「えっ? そう……そうなんだ。刑事さん、やっぱり、その所長、感染していないって」
タキシがそう言うと、刑事は、
「ふ~~…………わかった……所長を連れて行け」
刑事は力が抜けた手首を振って老人を退室させた。
――これで、いよいよ事態を収拾する手掛かりがなくなった……
刑事はチラっと三人を見て、いつの間にか自分がすがるような目で彼らを見ている事に気づいた。三人から後光がさしているように見える。
「やってくれるか?」
思わず刑事は言葉にしてしまっていた。
「はい!」
もう後戻りは出来い。
刑事は若い警官を呼ぶと、あと三人連れて来るように命じた。
警官が五人とウージ達三人で突入する事になった。
刑事は他の警官四人に、
「良いか! 我々の任務は彼ら三人を無事に潜入させる事にある。全力で三人を援護しろ!」

――

八人は研究所の中に突入を開始していた。
「くっそー! うじゃうじゃいやがる」
ウージは襲って来る研究員達を次々と組み伏せては免疫注射を打っている。
「ひゃー、やっぱ僕だめだ。怖いよー」
タキシはフクタの手を引っ張ってウージの前を走る。
「べ、別にお前らに最初っから期待してねぇんだ。良いから早く行けぇ!」
いつの間にかに三人だけになっていた。それでも、ここに来るまでに刑事と警官隊が援護してくれたおかげで追手をだいぶ減らす事が出来た。
三人は廊下を走っていたが、やがて奥で突き当たった。
フクタが何か言うと、タキシが、
「えっ? 実験室、ここじゃないかって?」
突き当たった廊下の左側にはドアがあり、建物の構造上最も安全そうな場所だった。
タキシが、ドアを開けるとすんなりと開いた。
「よ、よし、チラッと中を見てみろ」
ウージはタキシとフクタに背を向けて、廊下を追って来た研究員たちを睨んでいる。研究員たちは襲いかかるタイミングを見計らいつつ、立ち塞がっているウージを睨んでいる。
「ウージ君! 中には誰もいないよ! あっ、フクタ君、いきなり入っちゃ危ないって! えっ? 奥にガラス張りの部屋がある。あっシャーレがいっぱいある。うん、ここに間違いないね。ウージ君、ここが実験室で間違いないみたい。でも、誰もいないみたいだよ」
「よ、よし、じゃあ、お前らだけ中に入って探してろ! 俺は、もう少しコイツら片付けてから中に入る。えっ? 良いから、さっさとしろ! 時間がねぇんだろ!」
ウージはバタンとドアが閉められた音を聞くと、
「おっしゃー! さぁ! 来いやぁー」
と叫んだ。

部屋の中に入った二人は、ガラス張りの実験室の横にドアを見つけた。開けてみると、このドアも難なく開いた。人が二人入れる程度の密室を挟んで奥の扉を開くと、ガラス張りの実験室の中に入れる仕組みだ。手前の部屋のドアを閉めると、一気に冷たい空気が吹き付けて来た。恐らく滅菌しているのだろう。
奥の扉を開くと、明らかに研究所の本体である実験室だった。しかし中には誰もいない。どうやら警官隊の対応に全員出払っているのだろう。
奥にパソコンが何台か置いてあった。フクタはまっすぐにパソコンの前の椅子に座ると、研究データを探し始めた。
「フクタ君、何か手がかりが見つかると良いね」
タキシは、パソコンを操作しているフクタの背中を見てから、背後を振り返ると、ガラス越しに今しがた廊下から入って来た控室が見えた。
――ウージ君大丈夫かな?
七人くらいはいた。いくら何でも一人で置いて来たのは、まずかったかな? タキシはフクタから離れてガラスに近づいた。今、気がついたが、何て厚さのガラスだ。試しに叩いてみた。ドン!
フクタが一瞬びっくりして後を振り返ったが、その音がタキシの仕業だとわかると、またパソコンに向きなおした。
「これ、何て言うんだっけ、防弾ガラスってやつかな? すっごい分厚いよ」
その時、ガラス越しに見える控室のドアが開き、ウージが入って来た。だいぶ息を切らしている。相当バテているようだ。部屋の中に入ると、内側から鍵閉めて、ドアに背中を持たれかけている。ウージはこちらに気がつき、何かを話した。
しかしガラスが厚すぎて何も聞こえなかった。
「えっ、ゴメン、何? ぜんぜん聞こえないよ」
ウージも聞こえないらしく、耳に手をあてて、えっ? という仕草をした。
「ゴメン! ウージ君、ガラスが厚すぎて何も聞こえないよ!」
タキシがもう一度言うと、ウージは耳に手を当てながらガラス張りの部屋に近づいて来て、
「まだ襲ってくる研究員が三人もいるんだ! す、少し休んだら、また廊下に出るけど、心配しないで作業を続けろ!」
今度は遠いながらも少し聞こえた。
タキシも声を精一杯張り上げて、
「わかったぁ! でも全員倒さなくても良いから、そこで休んでいてよー!」
タキシは精一杯声を張り上げたつもりだったが、ウージは、えっ? という仕草をした。
――う~ん、フクタ君っていつもこんな気持なんだろうか……
タキシの様子を見て、ウージは手で――いいから、いいから――というような仕草をして見せた。
その間もフクタは一心不乱にパソコン内のデータを探していた。
ウージは少し休むと、廊下の向こう側からドンドンとドアを叩いている敵を倒すべく、エイヤ! とドアを開けて廊下に出た。
ドアを開けた勢いで一人がひっくり返っている。急いでドアを閉めると、また襲いかかって来た研究員の肘を決め、すぐに免疫注射を打ち込んだ。打ち込まれた研究員はすぐに気を失う。もう一人、捕まえるとまた免疫注射を打つ。
ウージは研究所に侵入してから、まだ一発もコメカミをぶん殴って殺すという事をやっていない。この半年の間、道場に通い少しだけ関節技が使えるようになっていた。と言っても肘を決めるだけだが、この練習だけは毎日、タキシにも手伝ってもらってやっていた。タキシにとってはいい迷惑だったが、ウージの気持ちを理解していたので、大人しく付き合っていた。
三人に免疫注射を打ったところで、また廊下の奥から二人近づいて来るのが見えた。
ウージは、急いでドアを開けて、また中から鍵を閉めた。
――どーでも良いが、これは疲れる……
ウージは肩で息をしながら、汗びっしょりになっていた。ガラス張りの奥を見ると、フクタがパソコンの前に座って、まだ作業をしているようだ。その後には、タキシが大きな背中をこちらに向けて立っている。こうやって見ると、小さな背中と大きな背中で、まるで親子みたいだなと思い少しニヤける。
その時、タキシの背中に近づく男の姿が見えた。
――えっ? 中には誰もいないって言ってなかったか?
「タキシ!」
と叫んだが、タキシは気がつかない。
ウージは慌ててガラス張りの部屋に近づいて、中に入ろうと、横のドアをガチャガチャと開けようとしたが、中から鍵がかかっているようで開かなかった。
その時、ガラス越しにタキシが何か棒のようなもので後頭部を殴られたのが見えた。
タキシは、そのまま崩れ落ちるように倒れて行った。
しかし、フクタは集中していて後の様子にはまったく気づかない様子で一心不乱にパソコンを見ている。
「うしろ! 逃げろー! フクタぁ! フクタぁー! フクタぁーー!」
フクタはびっくりして振り返り、男に気づくと、すぐに席を立って逃げた。
男は持っていた棒をカラン、カラン~と床に投げ捨てた。
ウージは必死にガチャガチャとドアを開けようとしたり、ドアに体当たりしたが、ドアもガラスも頑丈過ぎてまったくビクともしない。
「フクタぁ! フクタぁー!」
その時、フクタが大きく口を開けて叫んだ「……………………!」
ガラス越しにウージの目をしっかりと見て大声で叫んでいる。
――フクタが! ……俺に……助けを求めている!
しかし何も聞こえない。何も聞こえない。何も聞こえないはず……だったが……
ウージは、大きく頷くと、控室の中をキョロキョロと見渡し、エアコンのスイッチを押した。エアコンはガラス張りの実験室内部の温度も調整できるようだ。
男がジリジリとフクタに接近して来た。
男は眼鏡を人差し指で上げる仕草をしながら、
「君だね。待っていたよ。僕は君の体……いや、正確には君の脳が欲しくてね。この研究員の脳もあの所長の脳に比べれば、少しは優秀なんだが、それでも君とは比べものにならないよ。どうやら、君達のおかげで、この研究所も駄目になりそうだ。でも、僕は君の存在を知ってから、ずっと欲しくて欲しくてたまらなかったからね。とても嬉しいよ。君の脳が使えるなら、この絶体絶命のピンチでも脱出できると思うんだ。そうだろ? 君なら出来るだろ?」
フクタは後ずさりしながら逃げているが、だんだんと部屋の隅に追い込まれて行く。
「おや? 部屋の温度が下がって来たかな? そう言えば君、さっき外の彼にこの実験室の温度を下げるように指示したね。驚いた! 本当にこの部屋の温度が下がって来ているよ。どうやったんだ? この部屋から外には聞こえないはずなんだが……まぁ、でも、そんな事はどうでも良い。ちょっと君を買い被っていたのかな? 我々は、この程度、気温が下がったところで、活動が低下したりしないよ」
眼鏡の研究員はなおもフクタにゆっくりと近づいて来る。
フクタは完全に壁に追い詰められた。その様子をウージはハラハラしながらガラス越しに見ている。
「フクタぁ! やったぞ! これで合ってるかぁ! つ、次は? 次はどうするんだぁーーー!」
眼鏡の研究員の耳と口から菌糸の触手のようなものが出て来て、フクタの顔に近づいて来た。
フクタがウェッっと舌を出して顔をしかめる。
と、その時、眼鏡の研究員が、
――ん?
と足元に目をやった。
床に倒れていたはずのタキシがしっかりと眼鏡の研究員の足にしがみついていたのだ。
「な、なんだ! こらっ! 離せ! お前の脳には用がないんだ、こらっ! 離せ!」
研究員は片足を振りほどくとタキシの頭を思いっきり踏みつけた。
タキシは顔から鼻血がバッと噴き出した。
「っててぇーーフクタ君、早く……でぃげでぇ」
「こ、こらっ離せ、離せって言ってんだろ!」
なおも研究員は掴まれた足を振りほどこうと、空いている片足でタキシの頭を蹴り続けている。
「や、や……だ……よ……うっぐっぅ、ふぐだ君、い、今だ」
「くそっ! くそぅ! コイツ、何て馬鹿力だ! この離せって! てめぇには用がねぇんだよ」
ガツッ、ガツッっと今度はタキシの手を踵で踏みつけ始めた。
ウージはガラス越しに二人の様子を見ながら何も出来ない自分が悔しくて、悔しくて……うっすら涙を浮かべている。
「タキシ! タキシぃー! あぁ~もぅ~タキシ! くっそう、あ~、フクタ! フクタぁ~! お前は何でそっから動かないんだ! 早くこっちに来い!」
しかしフクタは青ざめてタキシを見て涙ぐみながらも、ぐっと堪えている表情でそこから動こうとはしない。
その様子を見た研究員が、
「なんだ……フクタ君、逃げないのか? いや、逃げられないのか? そうか、そうか、もう足がすくんじゃったのかな? それは、そうだろ、そうだろ、無理もないさ、君みたいな小さな子が震えて動けなくなったって、それは仕方がないことさ。もう、とっくに観念したって事だね。そうだ、それで良い。君の脳に移動させてくれぇー!」
研究員は片足にしがみついているタキシを見下ろして、なおも蹴り続けながら、
「ほらっ! お前の頑張りも無駄なんだよ! この子が諦めたんだから、ほらっ! もう良いだろ? 頼むから離してくれよ。僕ら菌糸はお前ら人間と違って宿主になるかもしれない存在を殺したりしないんだよ。でもな、もういい加減にしないと、そうも言ってられなくなるんだよ! ほらっ! お前の馬鹿力は無駄だったんだよ。認めろよ! おい! 離せってば!」
ガツッとなおもタキシの頭を蹴り続ける。
「フクタ君は、諦めない、……ぜったい……ぜったい、諦めない……もう……お前は……オ、ワ、リ、なんだ……よう! フクタ君が逃げないって事……は……そういう事なんだよ……ゲホッ」
「くっ! この負け惜しみか! ……あっ! 何だ?」
突然、眼鏡の研究員が動揺を見せた。周りをキョロキョロと見渡している。
「な、何だ? ど、どこから来ている?」
研究員がやがて天井を見上げた。
「う、上か? 上のダクトか?」
眼鏡の研究員の頭上にはダクトがあり、急激に風が流れ込み、研究員の頭上に吹き付け始めていた。実験室と控室の温度差が増したせいだった。
「だ、だからどうした? 風が入って来たからどうしたって言うんだ!」
フクタがボソっと何か言った。
「ふ、フクタ君、それ、本当? こいつ、進化した有害菌糸じゃないの? 前のタイプの有害菌糸? あっそうか! どうりで直接接触しようするわけだ!」
「だ、だから何だよ! あっ!」
眼鏡の研究員がガラス越しのウージを見ると、ウージは涙目でこちらを覗き込みながら、頭上のダクトに向かってスプレー缶から天敵菌糸を噴射し続けていた。
「し、ま、っ、た……」
と言いながら眼鏡の研究員は意識を失い、その場に崩れ落ちた。
フクタは慌てて、タキシに駆け寄った。
「だ、大丈夫? タキシさん、ごめん! ゴメンね! タキシさんが助けてくれなかったら、とても持たなかったよ。三分ほど計算がずれちゃったんだ。痛かったでしょ? ごめんなさい、ごめんなさい!」
タキシは顔の鼻血を袖口で吹きながら、
「へへ、こんなの、ウージ君の関節技の痛さに比べれば、ヘッチャラさぁ……ほんっとに、あっちの方が何倍も痛いんだから」
タキシは強がりを言っているわけではなく、本当にそう思っていた。
「この研究員の人、大丈夫かな? ゾンビみたいに、ワーってまた襲って来たりしないよねぇ?」
「うん、暫くして起きたら、また記憶がなくなってると思う。それより、もう、ここを出ようよ」
「えっ? 続きをやらなくて良いの? 何か良い手掛かりが見つかったの?」
フクタは困惑した表情で、
「……たぶん……そのことは後で話すよ……それより、早くここを出て刑事さん達に伝えないと……ウージさんも心配そうにこっちを見てるし……」
と言ってフクタはウージの方を見て笑った。
タキシもつられてガラス越しのウージを見ると、ウージは涙目でこちらの様子を不思議そうに見ながら、なおも頭上のダクトに向かって天敵菌糸を噴射し続けていた。
思わずタキシもプッと吹き出した。
二人が控室に出て来ると、堰を切ったようにウージがしきりに大丈夫かと聞いて来て、二人が大丈夫そうなのを知って、安心しているのがわかった。
そこへドンドン! ドンドン! 廊下側から控室のドアを叩く音が聞こえた。
「ウージ君! みんなは大丈夫か? 外の研究員たちはみんな片付けたぞ! 中はどうなってる?」
刑事の声だった。
ウージは一応、免疫注射の準備をしてから、控室のドアを開けた。
先程、こちらに向かっていた二人の研究員たちがその場に倒れていた。
「彼らを運び出すのは後だ。どうだい? 何かわかったかい? とにかく一度、本隊と合流しよう」
刑事と三人は小走りで今、来た廊下を戻り始めた。
「でも、ウージ君、よくフクタ君が言ってた事がわかったね? あの眼鏡の研究員も聞こえるわけがないって驚いてたよ? 一体どうやったの?」
タキシが走りながら聞くと、フクタも不思議そうにウージの顔を見上げた。
「はぁ、はぁ……えっ? 聞こえたんだよ! 聞こえちゃわりーか? はっきり聞こえたんだよ! はぁ、はぁ」
タキシとフクタは顔を見合わせて嬉しそうに笑い、それ以上は何も聞かずに刑事の後に小走りでついて行った。

本幕に戻ると、大量の湿った原木が回収され、ビニール袋に詰められていた。
しかし、湿った原木は杉林のあらゆるところに縛りつけられていて、とてもこの少ない人数では回収出来そうもなかった。
警官達もだんだんと焼け石に水なんじゃないか、という雰囲気が漂って来ている。
そして……遂に…………それが起きてしまった。
ボファーという凄まじい轟音と共に、生暖かい風が一斉に吹き荒れ始めた。
春一番の到来だった。
杉の葉が一斉になびきながら、警官隊達の帽子も吹き飛びそうになり、みんなが帽子を片手で抑えている。三人の髪もなびき、みんな一瞬砂埃か? と目を細めた時、ワーと白いスギ花粉が宙に舞った。
それに合わせて、まだ縛られたままの湿った原木からも白い煙のような胞子が空気中に飛散して行くのが見えた。
「あ~~だめだったー、間に合わなかったー……」
警官隊たちが口々に力が抜けたように座り込んで行く。
「だ、だめだ。このままだと、街はどうなっちゃうの?」
タキシが絶望的な声を上げ、ウージが顔を青ざめ空を見上げている。
その時、フクタが、
「たぶん……どうにもならない……」
「えっ? フクタぁ! そりゃあ。どういう事だよ? 全部、お前が言ったとおりになってるじゃねぇか?」
「そ、そうだよ、フクタ君、どういう事?」
「うん、さっき研究データを見ていて、最初は信じられなかったんだけど、最近のデータを見ても、どうやら、進化した有害菌糸も空気中では三秒しか生きられないみたい。だからスプレー缶で近距離で噴射されたら、感染するけど……今、風で飛んで行ったヤツは大丈夫。ここにいる人達はみんな免疫注射を打っているし……」
タキシが納得したように、
「そうか! フクタ君の天敵菌糸を使ったから、え~~とアポトーシスの能力も備わっちゃったんだ!」
刑事が、
「えっ? なんだってぇ?」
ウージが、
「だからー! 進化した有害菌糸は三秒で死ぬって事らしいっすよ!」
タキシとフクタは顔を見合わせて、クスっと笑った。

――

フクタの母親が高校時代の同級生と電話で話をしている。
「もうね、最近、フクタ、なんて言うのかなぁ……明るくてなってね、未だに昆虫図鑑見たり、またシャーレと睨めっこしたりしてるみたいだけど、前ほどじゃなくなってね。少し安心しているのよ。そうね、フクタも、もう、中学生だしね。あっそうそう、そう言えば、明日、フクタの中学にお友達が二人転校して来るんだって! フクタも喜んでいるわー。二人とも年上の子で中三なんだけどね、なんか気が合うみたい。この間もピクニックに行って来て、泥だらけになって帰って来たのよーホホホホ……」

フクタは中学生になっていた。相変わらず無口だったが、クラスの子供にちょっかいを出される事は少なくなっていた。他の子供も少し成長したからなのか、フクタの態度が変わったからなのか定かではない。
休み時間になるとフクタは教室の窓際に立って、携帯をいじっていた。
「おい! フクタン! メールかぁ? お前、友達なんていたのかよ~!」
同じように窓から携帯を見ていた子供がフクタに話しかけて来たが、フクタは満足そうにニッコリと笑ったのを見て、その子供は何も言えなくなった。
新学期になってから一週間が経っていたが、ウージとタキシにとってはフクタのいる中学に転校して来て初日だった。
桜がまだ咲いている。ウージとタキシは、休み時間、教室の窓際に立って、眩しそうに桜を見ていた。タキシが何やら、ポケットに振動を感じて携帯を取り出した。
「おっ、早速ぅ! ウージ君、フクタ君からメールだよ。今日一緒に帰ろうって校門のところで待ってるってさ」
「ああ……」
ウージは生返事をしたが、少し嬉しそうな表情をしたのをタキシは見逃さなかった。
「ウージ君、僕らも、中三かぁ……でも、フクタ君とも同じ学校に通えるようになって良かったね」
「まったく、お前は呑気だよなぁ……良かねぇよ! 学校なんてロクに行ってなかったのに、い、いきなり高校受験だぞ! どれだけ、遅れてるのか見当もつかねぇよ」
「じゅ、受験……た、確かにその言葉聞くと、いきなりな感じするね。僕、全然、勉強してないよ。あっ! そうだ! 僕らには心強い味方がいるじゃないか! フクタ君に勉強教えてもらおうよ!」
「ったく、お前もどれだけ他力本願なんだよ。あっちは中一だっつうーの! い、いくらフクタでも……」
と言ったところでウージは自信がなくなった。フクタなら、あるいは……と思ってしまったからだ。
「そっかぁ……そう言えばフクタ君も、もう中学生か……なんか不思議だね。僕らの二年後輩になるんだぁ……何かもっと小さい子の感じがしてたのにねぇ」
ウージは、その小さい子に勉強を教えてもらおうとしてたのか、と言ってやりたかったが、本当に教えてもらう事になりそうな気がして言うのはやめておいた。

――

放課後になり、二人はフクタと待ち合わせの校門に向かっていた。
「そ、そう言えば……タキシ……お前、きっと腰抜かすだろうな」
ウージは、ちょっとイタズラっぽくタキシを見上げた。
「えっ? 何さ? どういう事さ?」
「まぁ、それはついてのお楽しみだ、へへ……」
二人が校門に着くと、フクタはまだ来ていなかった……と、タキシは思ったが、
「よう!」
とウージが校門に立っているセーラ服を来た可愛らしい女の子に声をかけた。
……タキシは驚愕のあまり目を白黒させている。
ウージが声をかけた校門の前には、セーラー服を来たフクタが立っていた。
「えっ! ? な、な、何? どういう事? ウージ君? ふ、フクタ君って……ほ、ホモの人だったの?」
タキシはかなり動揺して吃りながら、ウージの背中の制服の裾を掴んでブルブル揺すっている。
ウージはその背中の手を鬱陶しそうに払いながら、
「だから、お前は鋭いようで鈍いって言うんだよ。どっから見たって、そ、その……可愛いの女の子……じゃ、じゃねぇか……よ」
ウージは照れくさそうに目を逸らした。
フクタの顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
「ええええ! ふ、フクタ君って、きみ? えー……女の子だったのー? えーー、で、でさぁ! ウージ君は、それ知ってたのー? い、いつからさー?」
タキシは目がフクタに釘付けになったまま、ウージの制服の肩のあたりをギュッと強く握って揺すっている。
ウージは、痛がって、またタキシの手を払いのけながら、
「だ、だから、最初っからだよ。お前がどーかしてるんだよ。さ、最初っから、こいつは、そ、その目がクリってしてて、そ、その可愛かったろ!」
ウージは照れくさい様子でまともにフクタの姿を見ていない。
「そ、そりゃ、クリってしてたけどさぁ! えー!」
タキシはまだ納得がいかない様子だったが、フクタが先を歩き出したので、二人も校門を後にして歩き始めた。
フクタは急に歩みをゆるめて、二人の真ん中に強引に入ると、ウージとタキシの片耳を引っ張って、自分の口元に近づけた。
「な、なんだよ?」
「えっ、なに?」
二人がフクタが何を言うのか待っていると、フクタは二人を暫くじっと見つめた後、耳から手を離してイタズラっぽく笑って、前に走りだした。
二人はお互いの顔を見ると、相手がみるみる赤くなって行くのが見えた。
「こ、こら! フ、フクタぁ! ふ、ふざけた真似しやがってぇ! 待て、コラ!」
「な、なに? 僕、もう頭の中真っ白だよ。なに? どういうこと?」
タキシはボーっとしながらウージの後を追いかける。
三人の姿を祝福するように桜の花びらが風にまかれて行く……

(完)

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